作品背景|都市ブルジョワ vs 地方ブルジョワ

作品背景

そもそもブルジョワとは?

『オランダの殺人』第三章で、次のように『ブルジョワ』という言葉が出てくる。
私は、この言葉を『良家』と訳したが、『ブルジョワ』とは、そもそも「おとなしい気弱な性格」なのか?

1Mais cela n’empêchait pas sa timidité, une timidité de bourgeoise de petite ville qu’un rien effarouche.

だが|それでも、|小さな|町の|良家の|女性らしく、|ほんの|些細なことで|ひるんでしまう|ような、|おとなしい|性格は|変わらなかった。

フランス革命から読む階層の正体

「ブルジョワ(bourgeois)」という語は、単に“中産階級”という意味ではない。
この語の背景には、中世以来の都市社会の発展と、フランス革命という巨大な転換期が深く関わっている。

文学作品、とくにシムノンのような社会観察型の作家を読む際には、この「ブルジョワ」の歴史的性質を理解しておくことが欠かせない。


中世の「ブルジュ(bourg)」から始まる

── 都市に住む“市民階級”

語源は bourg(ブルジュ)=城壁に囲まれた都市
ここに住むのが bourgeois(ブルジョワ)=都市市民 だった。

  • 商人
  • 銀行家
  • 職人ギルドの上位層
  • 都市の自治に関わる層

彼らは封建領主にも農村にも属さず、都市経済を支える独立した社会集団として成長していった。


フランス革命で立場が一変

── “第三身分”の主役へ*

1789年、フランス革命。
この時代、社会は三つの身分(états)に分かれていた。

  1. 聖職者(第一身分)
  2. 貴族(第二身分)
  3. それ以外すべて(第三身分)=農民・労働者・市民

この“第三身分”で最も力を持っていたのが ブルジョワだった。

  • 商工業で財力を築く
  • 教養がある
  • 新しい政治や経済の理念に通じる

革命の主導権を握ったのは、貧しい民衆ではなく、都市ブルジョワの知識人たちである。

これにより、ブルジョワは封建制を打倒し、新しい市民社会の中心階層になった。

ここから見ると、ブルジョワの女性が大人しい、気弱な性格とはとても思えない。


19~20世紀の“近代ブルジョワ”

労働者でも貴族でもない、安定階層

革命後のブルジョワは、次のような特徴を持つ階級として固まった。

  • 財産がある(不動産・商店・会社)
  • 教養がある(語学、芸術、大学教育)
  • 職業が安定している(行政・法律・医学・教育)
  • 家族・体面を重んじる
  • 保守的になりやすい

つまり、今日の言葉で言えば、

文化資本と経済的安定を持った中産・上中産階級

である。

そしてシムノンが描く1930年代には、ブルジョワは 都市型と地方型 にはっきり分かれていた。


都市ブルジョワ

── 文化と広い世界を持つ階層

都市ブルジョワの特徴は次の通り。

文化資本が高い

  • 外国語
  • 音楽
  • 文学
  • 新聞・雑誌
  • 国際的な情報網

これらが日常生活の一部になっている。

自信と余裕

大都市では人間関係が希薄で、価値観が多様。
周囲の目が分散するため、自己主張をしやすい。
→ 多少の個性があっても受け入れられる。

女性の社会的自立

  • 職業を持つ
  • サロンに出る
  • 大学教育が比較的普通。

地方ブルジョワ

── 体面と規範にしばられた階層

一方、地方ブルジョワは都市とはまったく事情が違う。

小さな社会=濃密な監視

  • 噂がすぐ広まる
  • 行動が常に観察される
  • 「家の名」が重い
    目立たないことが最大の防御になる。

模範的であるよう求められる

地方ブルジョワは、「町の良識ある家庭」であることを期待される。
派手な行動や逸脱は、家族全体の評価を傷つける。

女性はとくに抑制的になる

  • 控えめ
  • 慎重
  • 小さなことで身をすくめる
  • 自己主張を避ける

これは性格ではなく、環境が作る社会的ふるまいである。


シムノン作品における意義

シムノンは、人物の階層・土地柄・職業を仕草・態度・声の出し方 で描く作家である。

たとえば今回の文:

une timidité de bourgeoise de petite ville qu’un rien effarouche
(小さな町のブルジョワ女性らしく、ほんの些細なことで身を縮めるような慎ましさ)

これは
地方ブルジョワ=“大人しい、気弱” ではなく、
地方社会の空気が生み出す”控えめさ、慎ましさ”
を描いたものだ。


つまり、ブルジョワとは

ブルジョワは“社会文化的な型”であって、その階層の収入や職業から当然のようにその人間の性格や思想信条を当てはめられるものではないのだ。

  • 歴史的には都市市民の主体
  • 革命期には国家改革の主役
  • 近代では安定した文化階級

そして実態は

  • 都市と地方で行動様式が真逆
  • シムノンはその違いを細かく描き分ける

したがって、

ブルジョワとは職業や収入ではなく、 家庭・教育・社会的ふるまいの総体を示す階層である。