霧の港

第八章 村長の捜査

メグレは両手をポケットに突っ込み、険しい表情で道の真ん中に立っていた。

「心配なんですか?」と、リュカがたずねた。彼は上司のことをよく知っていた。

リュカ自身もそうだったに違いない。というのも、彼もまた、目の前にそびえる別荘を、不機嫌そうな目で見ていたからだ。

「中に入らないといけないんだが」と、メグレは窓を一つ一つ調べながら呟いた。

しかし、窓はどれも閉まっていた。家の中へ入る方法はなかった。メグレは音を立てないように扉へ近づき、頭を傾けて耳をすませた。そして、リュカに黙っているよう合図した。やがて二人とも、樫の木の扉に耳を押しつけていた。

声は聞こえなかった。言葉が交わされることもなかった。その代わり、書斎の中で足を踏み鳴らすような音がし、鈍い打撃音が、規則正しく聞こえていた。

二人は殴り合っているのだろうか。それは考えにくかった。というのも、殴り合いなら、音がこれほど規則正しく続くはずはなかったからだ。殴り合う二人の男なら、行ったり来たりし、ぶつかり合い、家具に当たり、打撃も間を置いたり、急に続いたりする。

ここで聞こえるのは、打ち据えるような連続音だった。しかも、打っている男の息づかいまで感じ取れた。

『ハン!ハン!ハン!』

それに続くように、低いうめき声が聞こえた。

メグレの目が、リュカ主任刑事の目と合った。警部は鍵穴を見ながら、手を差し出した。相手は気づいて、ポケットから合鍵の束を取り出した。

「音を立てるな」

まるで中に静寂が訪れたようだった。重苦しい沈黙だった。もう殴る音はしなかった。足音もしなかった。おそらく、だがあまりにかすかだったが、力尽きた男の荒い息づかいが聞こえた。

リュカが合図した。扉が開いた。左手の書斎から、光が漏れていた。

メグレは少しばかり怒りを込めて肩をすくめた。彼の権限を越えていたのだ。しかも、ウイストルアムの村長のような、気むずかしい公的な人物の家で、かなり重大な権限の逸脱なのだ。

「仕方ない!」

廊下から、はっきりと息づかいが聞こえた。だが、一人分だけだった。何も動いていなかった。リュカは拳銃に手をかけていた。メグレは扉を押し開けた。

彼は立ち止まった。これまでめったになかったほど、気まずく、途方に暮れた。彼は新たな悲劇を発見すること覚悟していたのか?

だが、それは別の光景だった!しかも、これ以上ないほど彼を困惑させる光景だった。グランメゾンがそこにいた。唇は裂け、あごとガウンは血だらけで、髪は乱れ、ノックアウトのあとに起き上がったボクサーのように、ぼうっとした顔をしていた。

それに、かろうじて立っているだけで、暖炉の角にもたれかかっていた。あまりに後ろへ反り返っていたので、倒れずにいるのが不思議なほどだった。

二歩ほど離れたところに、グラン=ルイがいた。着衣は乱れ、まだ握りしめている拳には血がついていた。村長の血だった!

廊下から聞こえていた息づかいは、グラン=ルイのものだった!息を切らしていたのは彼だった。おそらく、殴りつづけたせいだった。その息には酒の匂いが強く残っていた。テーブルの上では、グラスが倒れていた。

警官たちの側の驚きも、相手のぼう然ぶりもあまりに大きく、少なくとも一分ほど、誰も言葉を発することはなかった。

やがて、グランメゾンはガウンの端で唇とあごの血をぬぐい、まっすぐ立とうと力を入れ、口ごもりながら言った。

「何だ・・・、君たちは?」

「お邪魔したことをお許しください」と、メグレは丁寧に言った。
「物音が聞こえたもので」

「扉が閉まっていませんでした」

「それは違う!」

この言葉を投げつけるために、村長は気力を取り戻していた。

「いずれにしても、間に合ってよかった。あなたを守るためにきたのです。それに」

メグレはグラン=ルイの方へちらりと目をやった。グラン=ルイは少しも困った様子を見せていなかった。それどころか、今では奇妙な笑みさえ浮かべ、村長の一挙一動を見張っていた。

「私は守ってもらう必要などありません」

「しかし、この男はあなたを襲った」

鏡の前に立って、グランメゾンは身なりを少し整えていた。血がなかなか止まらないのを見て、いらだっていた。

そのときの彼は、力強さと弱さ、自信と無気力が奇妙に入り混じった姿だった。

黒く腫れあがった目のまわり、打ち身、傷のために、彼の顔に少し残っていた若々しさは消えていた。目には青みがかった濁った光があった。

彼は意外なほど早く、落ち着きを取り戻していった。そしてついには、暖炉に背を向け、警官たちに向かって顔をあげた。

「あなた方は、私の扉をこじ開けたのでしょうね」

「失礼。私たちはあなたを助けようとしたのです」

「嘘です。なぜなら、私が何か危険なことが起こるとは、あなた方は知らなかったはずだからです。それに、私は危険なことなどなかった!」

彼は最後の数語を、わざと一音一音区切って言った。

メグレの視線は、グラン=ルイの恐ろしい体つきを、上から下へ、下から上へと調べた。

「それでも、この客を連れていくことはお許しいただけると思いますが」

「とんでもない!」

「彼はあなたを殴った。しかも、かなりひどいやり方で」

「われわれは話合っているのです!これは私だけに関わることです!」

「今朝、あなたが階段を少し急いで下りたとき、ぶつかった相手はこの男だったと考える十分な理由がある」

グラン=ルイのその笑みは、写真に撮っておきたくなるほどだった。彼は喜びの絶頂にいた。息を整えながらも、周囲で起こっていることを一つも見逃さなかった。そして、この場面が彼にはたまらなく楽しそうに見えた。その面白さを、全てわかっているのだ!おそらく、彼だけは、その場の隠された事情を知っていたのではないか?。

「先ほど言いましたよね、警部さん。私は私の方で捜査を始めたのです。あなたの捜査には口を出しません。どうか、私の捜査にも口を出さないでいただきたい。それからあなたを不法な住居侵入による、権利侵害で訴えても驚かないでいただきたい」

それが滑稽なのか、悲劇なのか、判断するのは難しかった!。彼は威厳を保とうとしていた。背筋をまっすぐ伸ばしていた。だが、唇からは血が流れていた!顔は傷だらけだった!ガウンはくしゃくしゃだった!

そのうえ、グラン=ルイが彼を励ましているような顔をしていた!

なによりも、その前の場面があり、それを思い描くのは難しくなかった。グラン=ルイは、全力で殴りつけ、殴りに殴って、ついには拳を上げる力さえなくなったのだ。

「申し訳ないが、村長。私はここをすぐには出ていけないのです。夜間にウイストルアムで電話がつながっているのはあなたのお宅だけですので、いくつかの連絡はこちらへ来ることになっているのです」

グランメゾンは、返事の代わりに、そっけなく言った。

「扉を閉めてください!」

扉は開いたままになっていた。彼は暖炉の上に散らばっていた葉巻の一本を拾い、火をつけようとした。だが、傷ついた唇に煙草が触れたのが痛かったらしく、苛立たしげに投げ捨てた。

「リュカ、カーンへ電話をつないでくれるか?」

メグレは村長を見つめ、ついでグラン=ルイを見つめ、また村長を見つめつづけていた。考えをまとめるのに苦労していた。

たとえば、一見すると、二人の男のうち、劣勢にあるのはグランメゾンの方に見えた。肉体的にだけでなく、精神的にも、より弱いのは彼の方に思えた。

彼は殴られていた。しかも、これ以上ないほど屈辱的な姿をさらしているところを見られてしまったのだ!

ところが、そうではなかった!ほんの数分で、グランメゾンは自分を取り戻した。偉大な家柄の彼の威厳をいくらか取り戻すことができた。

彼はほとんど落ち着いていた。目つきは尊大だった。

グランルイの立場は気楽だった。勝ったのは彼だった。けがもなく打ち身さえなかった。少し前までは何とも言えない笑みの中に、子どものような喜びが浮かんでいた。

ところが今になって困ったような顔をしはじめた。何をすればよいのかどこにいればよいのかどこを見ればよいのかさえわからない様子だった。

そのときメグレは自分に問いかけた。

『この二人のどちらかがリーダーならばどちらだ?』

答えを出すのは極めて困難だった。あるときはグランメゾン村長。またあるときはグラン=ルイだった。

「もしもし!カーン警察ですか?メグレ警部からお伝えします。警部は一晩中村長の家にいます。ええ。一番へ電話してください。もしもし!何か新しい知らせは?もうリジューですか?ありがとう!はいわかりました」

それから警部に向かって言った。

「車は今リジューを通過しました。あと四十五分でここへ着きます」

「今話が聞こえましたが・・・」と、村長が言いかけた。

「私が一晩中ここにいるということです。もちろんお邪魔でなければ。あなたはこれまでに私に二度、自分で捜査をしていると話してくれました。それならここで我々が手に入れた成果を一つにまとめた方がよいと思いましてね」

メグレは皮肉を言ったわけではなかった。腹だたしかったのだ。こんな奇妙な場面に自分から飛び込んだことが腹だたしかった。何一つわからないことが腹だたしかったのだ。

「グラン=ルイ。我々が来たときなぜ君はその・・・ええと!村長を力いっぱい殴り続けていたのか説明してくれないか?」

しかしグラン=ルイは答えず村長を見た。その目は、『そっちが話せ!』と言っていた。

するとグランメゾンが冷たく言った。

「それは私の問題だ」

「当たり前だ!殴られるのが好きなら、誰にだって殴られる権利はある!」と、メグレはひどく機嫌を悪くして、呟いた。
「ホテル=ド=リュテス呼び出せ、リュカ」

その一言は効果があった。グランメゾンは何かを言おうと、口を開いた。片手が暖炉の大理石の縁を強くつかんだ。

リュカは電話で話していた。

「三分待ちですか?どうも。ええ」

それからメグレはわざと声を張り上げた。

「この捜査は妙な成り行きになってきたと思わないか?ところで、ムッシュー=グランメゾン。あんたにはひとつ、力を貸してもらえるかもしれない。船会社の社長なら、いろいろな国の人間を知っているだろう。ある男の話を聞いたことはないか?待てよ。マルティノーとか、モティノーとかいう男だ。ベルゲンか、トロンハイムの出身だ。とにかく、ノルウェー人だ」

沈黙!グラン・ルイの目つきが険しくなった。

彼は何気なく、テーブルで倒れていたグラスの一つに酒を注いだ。

「知らないのは残念だな。もうすぐ、ここへ来る」

それだけだった!もう、一言も付け加える必要はなかった!誰もこれ以上、答えようとはしない!わずかな表情の変化さえ見せないだろう!三人が身構えたのがはっきりと感じられた。

グランメゾンは戦術を変えていた。暖炉に背を預けたまま、丸い石炭の火にふくらはぎを温められながら、できるだけ無関心を装って、床を見つめていた。

妙な顔だった!はっきりしない表情をして、赤や青のあざが広がり、あごには血が付いている!押し殺した気力と、おびえ、あるいは痛みが入り交じっていた。

グラン・ルイは椅子に後ろ向きにまたがっていた。三、四度あくびをすると、そのままうとうとし始めたように見えた。

電話のベルが鳴った。メグレはすばやく、受話器を取った。

「もしもし!ホテル=ド=リュテス?もしもし?切らないでくれ。グランメゾン夫人を頼む。そうだ!今夜か、今日の午後には着いているはずだ。待っている。ああ、わかった!」

「まさか」グランメゾンが感情を抑えた声で言った。
「私の妻まで巻き込むつもりですか。あなたのやり方は、控えめに言ってもおかしい」

返事はなかった。メグレは受話器を耳に当てたまま、テーブルの敷物をじっと見つめて、待っていた。

「もしもし!ああ、何だって?もう出発した?ちょっと待て。順を追って話そう。その夫人は何時に着いた?七時。よし。自分の車で、運転手つきだな。ホテルで夕食を取り、そのあと、電話で呼び出されたというんだな。すぐに出たのか?ありがとう。いや!それで十分だ」

誰も動かなかった。グランメゾンはいくらか落ち着いたように見えた。メグレは受話器を置くと、すぐにまた取り上げた。

「もしもし?カーンの郵便局か?こちらは警察だ。今、私が電話しているこの番号から、私が今しがたつないでもらった電話の前にに、パリへの通話を申し込んでいないか、調べてくれ。ああ?十五分ほど前?ホテル=ド=リュテスだな?ありがとう」

額には汗の玉が浮かんでいた。彼は人さし指でゆっくりとパイプにたばこを少しずつ押し込んで詰めた。それから、テーブルにあった二つのグラスの一つに、自分で酒を注いだ。

「警部さん。今、あなたがしていることはすべて違法だと、おわかりでしょうな。あなたは扉をこじ開けて、ここへ入り込んだ。招かれてもいないのに、居座っている。私の家族をおびえさせるおそれがあるうえ、第三者の前で、私を罪人のように扱っている。このすべてについて、あなたには責任を取ってもらう」

「わかった!」

「どうせ、私は自分の家で何の力もないようだから、寝室へ引き取る許しをいただきたい」

「だめだ!」

メグレはまだ遠くに聞こえる自動車の音へ、耳を澄ませていた。

「扉を開けてこい、リュカ」

彼は何気なく、丸い石炭を一すくい、暖炉へ投げ入れた。そして、新たに人々が部屋へ入ってきた瞬間、彼は振り返った。

エヴルーの憲兵が二人、手錠をかけられた男を挟んでいた。

「もういい」メグレは憲兵たちに言った。「いや、やはり、角の酒場で私を待っていてくれ。必要なら、一晩中になる」

グランメゾンは動かなかった。グラン=ルイも同じだった。二人とも何も見なかったか、あるいは見ようとしなかったようだ。新しく入ってきた男は落ち着いており、グランメゾンの腫れ上がった顔を見ると、その唇にかすかな笑みが浮かんだ。

「私はどなたに話せばいいのでしょう」

男は辺りを見回しながら、たずねた。

憲兵たちがやり過ぎたとでも言いたげだったので、メグレは肩をすくめポケットから小さな鍵を取り出し、手錠を外した。

「ありがとうございます。私はたいへん驚いて・・・」

すると、メグレが怒りに満ちた声でさえぎった。

「何に?捕まったことにか?本当にそんなに驚いたのか?」

「つまり、私は何の罪に問われているのか、いまだに知らされていません」

「少なくとも、自転車を盗んだろう!」

「いや!借りたのです!車を買ったガレージの主人が証明してくれます。私はその自転車をウイストルアムへ送り返し、持ち主に礼金を渡すよう、彼に頼んであります」

「おいおい!だが、そういえば、あんたはノルウェー人ではないな」

男にはノルウェーのなまりもなく、顔立ちもノルウェー人らしくなかった。背が高く、体つきもよく、まだ若かった。上品な服は少しくたびれていた。

「失礼。私は生まれつきのノルウェー人ではありません。帰化しましたので。ノルウェー人には違いありません」

「ベルゲンに住んでいるのか?」

「ロフォーテン諸島のトロムソ1です」

「商売人か!」

「タラの残り物を加工する工場を持っています」

「たとえば、タラの卵か」

「タラの卵も、そのほかにも・・・。頭と肝からは油を作り、骨からは肥料を作ります」

「けっこうだ!けっこう!けっこう!あとは、九月十六日から十七日にかけての夜、あんたがウイストルアムで何をしていたのか、それを知るだけだ」

男は少しもうろたえなかった。ゆっくりと辺りを見回し、言った。

「私はウイストルアムにはいませんでした」

「どこにいたんだ?」

「あなたは?」

男はニヤニヤしながら、言い直した。
「つまり、一か月以上もたってから、ある日のある時刻に自分が何をしていたか、とっさに言えるものか、ということです」

「ノルウェーにいたのか?」

「おそらくは」

「これは!」

そう言ってメグレは、相手に金の万年筆を差し出した。ノルウェー人は礼を言いながら、いかにも自然にそれをポケットへ入れた。

確かに気品のある男だった。村長と同じ年ごろで、背丈も同じくらいだったが、もっと細身で、もっと筋肉質だった。その黒い目には、強い生命力が漲っていた。そして、薄い唇の笑みには、強い自信がにじんでいた。

男は警部の質問に、ていねいに、愛想よく答えていた。

「思うのですが」と、男は言った。
「これは何かの手違いでしょう。できれば私はパリへの旅を続けたいのですが」

「それはまた別の話だ。グラン=ルイとどこで知り合ったんだ?」

メグレの予想に反して、ノルウェー人の視線は船乗りのほうへは向かなかった。

「グラン=ルイ?」と、男はくり返した。

「あんたは船長として航海していたころに、ジョリスと知り合ったのか?」

「失礼。わかりません」

「当然、そう言うだろうな!では、なぜあんたはホテルではなく、使われていない浚渫船で寝るほうを選んだのかと聞いたら、あんたは目を丸くして私を見るだろうな」

「いやはや。私の立場ならそういう反応になるのはご理解ください」

「それでも、あんたは昨日、サン=ミシェルでウイストルアムへ着いた。港へ入る前に、その帆船の小舟で上陸した。そして、浚渫船へ向かい、そこで一夜を明かした。今日の午後には、いまわれわれがいるこの屋敷のまわりを見てまわり、それから自転車を借りて、カーンへ飛ばしていった。そこで車を購入し、パリへ出発する。ホテル=ド=リュテスで落ち合う予定だったのは、グランメゾン夫人か?それなら、また出発する必要はない。私の見当がよほど外れていなければ、夫人は今夜ここへやって来るはずだ」

沈黙が流れた。村長は石像のように動かず、その目はあまりにもじっとしていて、そこに命の存在を感じることさえできなかった。グラン=ルイは立っている人間のまん中で、一人だけ腰かけたまま、頭をかき、あくびをしていた。

「あんたの名前はマルティーノか?」

「ジャン・マルティーノです!」

「じゃあ、ジャン・マルティーノ、よく考えろ。本当に俺に話すことがないのか、もう一度考えてみるんだ。ここにいる誰かが、近いうちに重罪裁判所へ送られる可能性は十分にある!」

「お話しすることがないだけではありません。必要な手続きを取ってもらうため、領事館に知らせる許可をいただきたい」

これで二人目だった!グランメゾンは告訴をするとおどし、マルティーノも同じことをしようとしていた!ただ一人、グラン=ルイだけは脅したりすることはなく、酒さえあれば、どんなことも気にせず受け入れていた。

外では、満ち潮の時刻を迎えた嵐が、最も激しい音を立てていた。

リュカの顔つきは、何を考えているかをはっきりと表していた。きっと、こう思っていたのだ。

『とんでもないことになったぞ!今度こそ、何か見つかってくれればいいが!』

メグレは怒ったようにパイプをふかしながら、部屋の中を行ったり来たりしていた。

「つまり、ジョリス船長の身に起きたことも、その死についても、あんたも村長も何も知らないってことだな?」

二人は首を横に振った。そして、沈黙が続いた。メグレの目は、何度もマルティーノへ戻った。

そのとき、外から急いで走る足音が聞こえ、続いて、扉をせわしくたたく音がした。リュカは少しためらってから、扉を開けに行った。誰かが走り込んできた。息を切らしたジュリーだった。彼女は息を切らしながら、話し始めた。

「警部さん、私の・・・、私の兄は・・・」

するとそのとき、彼女は急に黙りこみ、立ち上がって自分の前に大きな体をそびえ立たせたグラン=ルイを見て、呆然とした。

「お前の兄だって?……」と、メグレが念を押した。

「何でもありません……わたし……」

彼女は、息を整えながら、無理に笑顔を見せようとした。後ずさりしていたので、マルティーノにぶつかった。彼女は相手のほうを振り向いたが、まるで見覚えがないようで、口ごもりながら言った。

「ごめんなさい、ムッシュー……」

閉め忘れられた扉から、風が吹きこんでいた。

脚注

  1. 1

    トロムソ(Tromsø)は、ノルウェー北部のトロムス県にある港町です。北極圏の約350キロ北に位置し、北ノルウェー最大の都市として知られています。町の中心は、ノルウェー本土に近いトロムソ島にあります。(Tromsø kommune)

    ただし、トロムソはロフォーテン諸島の中にはありません。ロフォーテン諸島よりかなり北にあり、両者の間にはセニャ島やヴェステローレン諸島があります。観光案内でも、トロムソとロフォーテンは別の地域として扱われています。(ノルウェー観光ガイド)

    原文の、『Tromsö, dans les îles Lofoten』という表現は、地理的には正確ではありません。

    シムノンが北ノルウェーの漁業地帯を大まかにロフォーテン地方として書いたか、単純に地理を取り違えたものと考えられます。

    ↩︎
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