霧の港
第七章 指揮者
メグレが別荘から出てきた時、リュカはこれは大変なことになると感じた。警部は神経をとがらせていた。何も見ていないような顔をしながら、前方をじっと見つめていた。
「見つからなかったか?」
「探しても無駄だと思います。砂丘に隠れている男を捕まえるには、山狩りでもしなければなりません!」
メグレは外套のボタンを首までかけ、両手をポケットに突っ込み、パイプの吸い口をかじっていた。
「あのカーテンのすき間が見えるか?」と、彼は書斎の窓を指しながら言った。
「それから、ちょうど正面のあの低い塀が見えるな!いいか!あそこに立てば、すき間から中をのぞき込めると思う」

リュカはメグレとほとんど同じくらい太っていたが、背は低かった。彼はため息をつきながら塀によじ登り、通行人が来ないことを確かめるために、道の両方を見回した。
夜になると、風が出ていた。沖からの風で、刻一刻と強まり、木々を揺さぶっていた。

「何か見えるか?」
「高さが足りません。十五センチか二十センチほど足りません」
メグレは何も言わず、道端にあった石の山へ歩いていき、石をいくつか運んできた。
「試してみろ」

「テーブルの端は見えます。でもまだ人は見えません」
そして警部はさらに石を取りに行った。

「これでわかりました!二人はチェッカーをしています。女中が湯気の立つグラスを運んでいます。たぶんグロッグでしょう」
「そこにいろ!」
そしてメグレは、街道を行ったり来たり歩きはじめた。百メートル先にはラ・ビュヴェット・ド・ラ・マリーヌがあり、その先が港だった。パン屋の小型トラックが通りかかった。警部は、誰かがそこに隠れていないか確かめるために、危うくそれを止めそうになったが、肩をすくめた。

一見とても簡単そうに見えて、実際にはほとんど不可能な捜査というものがある。たとえば、村長の別荘の裏で突然姿を消した男を探すことだ!砂丘で探すのか?海岸や港、村の中で探すのか?すべての道を封鎖するのか?憲兵が二十人いても足りないだろうし、もしその男が頭の切れる人間なら、それでもどうにか抜け出してしまうだろう。
そもそも、その男が誰なのかも、どんな姿をしているのかもわかっていなかった。
警部は塀のところへ戻った。リュカはそこで、苦しい姿勢のまま立っていた。
「奴らは何をしている?」
「まだ遊んでいます」
「話をしているか?」
「口も開きません。元囚人は両ひじをテーブルについて、もう三杯目のグロッグに手をつけています」
さらに十五分が過ぎ、ベルの音が街道まで聞こえできた。リュカが警部を呼んだ。
「電話です。村長が立ち上がろうとしています。でも、受話器を取ったのはグラン=ルイです」

何を話しているのかは聞きとれなかった。ただ一つ確かなのは、グラン=ルイが満足そうな顔をしていることだった。
「終わったか?」
「またゲームを始めました」
「そこにいろ!」
そしてメグレは酒場の方へ歩いていった。いつもの晩と同じように、何人かがカードをしていて、警部に一杯飲ませようとした。
「今は結構。電話はあるか、マドモワゼル?」
電話機は台所の壁に取りつけられていた。年をとった女が魚を洗っていた。

「もしもし!ウイストルアムの郵便局か?警察だ!いま村長の番号へ電話をかけてきたのはどこからか、教えてもらえるか?」
「カーンです、 ムッシュー」
「何番だ?」
「百二十二番。<カフェ・デ・ラ・ガール>(駅前酒場)からです」
「ありがとう」
彼は酒場の真ん中にしばらく立ったまま、周囲のものが何も目に入らなかった。
「ここからカーンまで十二キロある」と、彼はふいにつぶやいた。
「十三キロです!」と、ちょうどやって来たデルクール船長が訂正した。
「どうです、警部?」

メグレには聞こえていなかった。
「……つまり、自転車なら三十分足らずだ」
彼は思い出した。水門係たちは、ほとんどが村に住んでいて、港へは自転車で来るのだ。そしてその自転車は一日中、酒場の前に置かれたままだった。
「自転車が一台なくなっていないか、確かめてもらえるか?」

そこからは、まるで歯車がかみ合うようだった。メグレの頭は、出来事をぴたりとはめ込む歯車のように働きはじめた。
「ちくしょう!私の自転車がなくなっている!」
彼は驚かなかった。何も聞き返さずに、ふたたび台所へ入り、受話器を外した。

「カーンの警察を頼む。そうだ。ありがとう。もしもし!警察本部か?こちらは司法警察のメグレ警部だ。パリ行きの列車はまだあるか?何だって?十一時までない?いや!ちょっと・・・メモを取ってくれ。
第一。グランメゾン夫人……そう、船会社の社長の妻だ。彼女が、本当に自動車でパリへ向かったか確認すること。
第二。見知らぬ男が、グランメゾンの事務所、または屋敷に現れなかったか調べること。
そう、それは簡単だろう。だが、まだ終わりじゃない。メモを取っているな?
第三。市内のガレージを全部当たること。何軒ある?二十軒ほど?待ってくれ!車を貸すところだけでいい。駅の近くから始めてくれ。そうだ!パリへ行くために、運転手つき、または運転手なしで車を借りようとした人物がいなかったか。あるいは中古車を買った人物がいなかったか。もしもし!おい、待ってくれまだだ!」
「おそらくそいつはカーンに自転車を置いていったはずだ。
ああ、それで全部だ!それを同時に調べるだけの人員は確保できるか?もちろんだ!なんでもいい、何かわかり次第、ウイストルアムのラ・ビュヴェット・ド・ラ・マリーヌへ電話してくれ」
港の人々は、蒸し暑い部屋の中で食前酒を飲みながらその話を全部聞いていた。メグレが戻ってくると、彼らの顔は深刻になり、不安で曇っていた。
「俺の自転車が・・・?」」と、一人の水門係が言いかけた。
「グロッグを!」と、メグレはそっけなく言った。

それはもう、この数日の人のよさそうな笑みを浮かべて、誰とでもグラスを合わせていた男ではなかった。彼はほとんど彼らを見ていなかった。彼らが誰なのかさえわかっていないようだった。
「サン=ミシェルはカーンから戻っていないのか?」
「夕方の潮で来ると連絡が入っています。でも、この天気では出られないかもしれません」
「嵐か?」
「ともかく、ひどい荒れ模様にはなります!それに風が北寄りに変わっています。いい前兆ではありません。聞こえませんか?」
耳を澄ますと、桟橋の杭に波が打ちつける音らしい、叩きつけるような響きが聞こえた。そして突風が酒場の扉を震わせていた。
「もし私あてに電話がかかってきたら、街道まで知らせに来てくれ。ここから百メートルのところだ」
「村長の家の向かいですか?」

外へ出ると、メグレはパイプに火をつけるのにひどく苦労した。空低く流れる大きな雲は、道沿いのポプラの木の先端に引っかかりそうに見えた。五メートル先では、塀の上に立っているリュカの姿もはっきりとは見えなかった。
「変わったことは?」
「もうゲームはしていません。ルイが突然、疲れたようなしぐさで、チェッカー盤の駒をかきまぜました」
「何をしている?」

「村長は肘掛椅子の中で半分寝そべっています。もう一人は葉巻を吸いながら、グロッグを飲んでいます。もう十本ほどの葉巻をかみちぎっています。まるで相手をいらだたせようと冷かすような顔つきをしています」
「グロッグは何杯だ?」
「五、六杯です」

メグレの方は、何も見えなかった。見えるのは、正面の壁に細く光るすき間だけだった。石工たちが仕事を終えて、自転車で村の方へ帰っていった。つづいて、農夫の荷馬車が通った。農夫は、暗がりに人がいるのを感じたらしく、馬に鞭を入れ、不安そうに何度も振り返った。
「女中は?」
「もう見えません。台所にいるのでしょう。私はここに長くいるんですか?それなら、爪先立ちしなくてもすむように、もう少し石を持ってきてもらった方がよさそうです」
メグレは石を持ってきた。海からの轟音は、ますますはっきり聞こえるようになっていた。浜辺に沿って押し寄せる波は、二メートルの高さに達し、白い泡となって砂の上に砕けているに違いなかった。
港の方で、扉が開き、また閉まった。酒場の扉だった。人影が現れ、誰かが闇の中を見通そうとしていた。メグレは駆け出した。

「ああ、あなたでしたか。電話です」
もうカーンからだった。

「もしもし。メグレ警部ですか?どうしておわかりになったんです?グランメゾン夫人は今朝、ウイストルアムからカーンを通過し、パリへ向かいました。娘さんは自宅に残し、家庭教師に預けています。正午に、車で出発しました。それから例の見知らぬ男の件ですが、おっしゃる通りでした。駅前のガレージを一軒あたっただけで、すぐにわかりました。男は自転車でやって来ました。運転手なしで車を借りたいと言ったそうです。店では、そういう貸し出しはできないと断りました。男は焦っているようでした。そこで、せめて速い車を買えないか、できれば中古車でいいと尋ねました。店はそういう車を一台2万フランで売って、男はすぐにその代金を支払いました。車は黄色で、トルペード型の車体です。売り物の車はどれもそうですが、Wの文字がついています1」

「どの方向に向かったのかわかるか?」
「男はパリへの道を尋ねています。リジウー、エヴルーを通る道です」
「リジウー、エヴルー、マント、サン=ジェルマンの警察と憲兵隊に電話してくれ。パリに入るすべての入り口を見張るように通知するんだ。とくにポルト・マイヨーだ」

「車を止めるのですか?」
「乗っている男もだ。人相はわかっているか?」
「ガレージの店主が話してくれました。かなり背の高い、中年の男で、明るい色のスーツを着た、身なりのよい男です」
「さっきと同じ指示だ。わかりしだい、ウイストルアムの私に電話を……」
「すみません!もうすぐ七時です。ウイストルアムとの電話は使えなくなります。村長の家へ行かれるなら別ですが」
「なぜだ?」
「村長の番号は一番で、夜はカーンと直接つながっているからです」
「郵便局に誰かを置いてくれ。村長への電話が入ったら、交換台で聞かせるんだ。車はあるか?」
「はい、小さいのが一台」
「私に知らせに来るにはそれで十分だ。場所は変わらず、ラ・ビュヴェット・ド・ラ・マリーヌ」
酒場で、デルクール船長が思い切って尋ねた。

「追っているのは犯人ですか?」
「わからん!」
そこにいた人々には、この数日、あれほど気さくで、親しげだったメグレが、今はこれほどよそよそしく、さらに気難しく見えることが、理解できなかった。
彼は何の説明もせずに外へ出た。外では、ふたたび海と風の激しい音の中へ飛び込んだ。とくに嵐で揺れる橋を渡るときには、彼は外套のボタンを留めなければならなかった。
ジョリス船長の家の前で、彼は立ち止まり、一瞬ためらった後、鍵穴に目を押し当てた。廊下の奥に、明かりのついた台所のガラス戸が見えた。ガラス越しに、竈からテーブルへと行き来する人影が見えた。

彼は呼び鈴を鳴らした。ジュリーは皿を手にしたまま動きを止め、それを置くと、ガラス戸を開けて玄関の方へ近づいてきた。
「どなた?」と、彼女は不安げな声で尋ねた。
「メグレ警部だ!」
すると彼女は戸を開け、身を引いた。彼女は神経をとがらせていた。目はまだ赤かった。怯えた様子で絶えずあたりに視線を投げずにはいられなかった。

「お入りください。来てくださってうれしいです。この家に私が一人でいるのがどんなに怖いか、おわかりになれば……。ここにはもういられないような気がします」
彼は台所に入った。台所はいつものように清潔で、きちんと片づいていた。
白いテーブルクロスを掛けたテーブルの上には、カップが一つ、パンとバターがあるだけだった。竈の上では、鍋から甘い匂いが立っていた。
「ホットチョコレートか?」と、彼は意外そうに言った。
「自分一人のために料理をする気になれなくて・・・。それで、ホットチョコーレートを作っているんです」
「私のことは気にしなくていい。食べなさい」

彼女は少しためらったが、やがてあきらめたように、カップにホットチョコレートをよそった。そこへバターを塗ったパンを大きくちぎって浸し、まっすぐ前を見つめながら、スプーンで口へ運んだ。
「あんたの兄さんは、まだ会いに来てないか?」
「いいえ。私には何が何だかわかりません。さっき、港まで行ってみたんです。会えるかもしれないと思って。船乗りたちは、することがないときには、いつも港のあたりをうろついていますから……」
「あんたは、兄さんが村長と親しいことを知っていたか?」
彼女はあっけにとられて彼を見た。

「どういう意味ですか?」
「二人でチェッカーをやっている」
彼女は冗談だと思った。そしてメグレがそれはまったくの事実だと言うと、彼女は愕然とした。
「わかりません」
「なぜだ?」
「だって、村長は人とそんなに打ち解ける人ではありません。それに、何より、私は村長がルイを嫌っていることを知っています。何度も、ルイにいやがらせをしました。滞在許可まで取り消そうとしていたんです」
「ジョリス船長とは?」
「何がですか?」
「グランメゾンは船長と親しかったか?」
「みんなと同じです。通りがかりに握手をします。冗談を言います。雨だの天気だの、二言三言言葉を交わします。でも、それだけです。前にも言いましたが、ときどき旦那様を狩りに連れていくことはありました。でも、一人で行きたくはなかったからです」
「公証人からの手紙はまだ来ていないのか?」
「いえ、来ました。私が包括受遺者だと書いてありました。それは、正確にはどういう意味ですか?私がこの家を相続するというのは本当ですか?」
「それに、三十万フランもある!」
彼女は少しも動揺することなく食べつづけた。それから首を振り、つぶやいた。
「そんなこと、ありえません。理由がありません。ですからあなたに言ったように、船長が三十万フランなんて持っていたことは一度もないと思ってます」
「船長の席はどこだった?台所で夕食を?」
「あなたがいらっしゃるそこです。籐椅子に」
「一緒に食事をしていたのか?」
「はい。ただ、私は料理をしたり、皿を運んだりするために立ち上がっていました。船長は夕食を取りながら新聞を読むのが好きでした。ときどき、記事を声に出して読んでくれました」

メグレは感傷にひたるような気分ではなかった。それでも、その場の静けさに心は乱れていた。時計のチクタクという音は、ほかのどこよりもゆっくり聞こえた。真鍮の振り子はランプの光を反射し、その光が向かいの壁の上で揺れていた。そして、このホットチョコレートの甘い匂い……。メグレが少し動くたびに、籐椅子は聞き慣れたきしみを立てた。ジョリス船長がそこに座っていたときにも、きっと同じようにきしんでいたに違いなかった。
ジュリーは一人でこの家にいるのを怖がっていた。それでも出ていくことにはためらいがあった!メグレにはこの親しみのある室内に、彼女を引き止めるものがあるのだと分かった。

ジュリーは立ち上がり、扉の方へ向かった。メグレはその様子を目で追った。白い猫を中に入れるためだった。猫はストーブの足元に置かれたミルクでいっぱいの皿に近づいた。
「可哀想なミヌー!」と彼女は言った。「旦那様はこの子をとても可愛がっていました。夕食のあと、ミヌーは旦那様の膝の上に乗って、寝る時間までそこを動かなかったんです」
あまりに深い静けさで、何か不穏なものを感じるほどだった!暖かく重たい静けさだった。
「本当に何も話すことはないのか、ジュリー?」
彼女は問い返すような目を彼に向けた。

「私はもう少しで真相にたどりつけると思っている。あんたの一言が助けになるかもしれない。だから私に打ち明けることがないか聞いているんだ」
「誓って何も・・・」
「ジョリス船長のことでは?」
「何も!」
「お兄さんのことでは?」
「何も・・・。誓います。」
「ここに誰かが来たな。あんたの知らない誰かが!」
「分かりません」
ジュリーは甘すぎるどろっとしたもの(ホットチョコレート)を食べ続けていた。メグレはそれを見るだけでうんざりした。
「それでは!失礼する。」
ジュリーは落胆した様子だった。またあの孤独が始まるのだから。彼女にはどうしても聞きたいことがあった。
「あの、埋葬のことですが・・・。そんなに長くは待てませんよね?亡くなった方は・・・、その・・・」
「冷蔵室に入っている」とメグレは気まずそうに言った。
彼女は大きく身震いした。
「リュカ、いるか?」

あたりは真っ暗で、何も見えなかった。嵐の激しい音が、ほかの音をすべてかき消していた。港では、男たちがそれぞれの持ち場で、グラスゴーからの船の到着を待っていた。その船は桟橋のあいだで汽笛を鳴らしているのが聞こえた。水門への侵入を失敗していた。
「ここにいます」

「二人は何をしている?」
「食事中です。私も同じことをしたいところですが。エビ、ハマグリ、オムレツ、それから冷たい仔牛肉のようなものです」
「同じ食卓にいるのか?」
「はい。グラン=ルイは相変わらず両肘をついています」

「話しているか?」
「ほとんど話していません。ときどき唇が動きますが、大した話はしていないはずです」
「飲んでいるか?」
「ルイは、飲んでいます。食卓にはワインの瓶が二本あります。古い瓶です。村長は相手にしきりに酒を注いでいます」
「酔わせようとしているようにか?」
「その通りです。女中が妙な顔をしています。船乗りの後ろを通らなければならないときは、体が触れないようにわざわざ遠回りしています」

「電話はもうないか?」
「ありません。今、ルイがナプキンで鼻をかんで、立ち上がりました。待ってください!葉巻を取りに行きます。箱は暖炉の上です。村長に箱を差し出しましたが、村長は首を振って断りました。女中がチーズを運んできます」
そしてリュカは、情けない声でつけ加えた。
「せめて座れればいいんですが!足が凍えています。落ちるのが怖くて、少しも動けません」
それでも、メグレの同情を引くには足りなかった。彼も百回は同じような目に遭ってきたからだ。
「食べ物と飲み物を持ってきてやる」
メグレの食事がホテル・ド・リュニヴェールに用意されていた。彼は立ったまま、パテを一切れとパンをむさぼるように食べただけだった。自分の部下のためにサンドイッチを作り、ボルドーの瓶に残っていた酒を持っていった。

「マルセイユでも食べられないようなブイヤベースを作っておいたのに!」と、宿の主人は嘆いた。

しかし、警部は何を言われても、こたえなかった。彼はまた塀のところへ戻り、もう十度目になる同じ質問をした。
「二人は何をしている?」
「女中が食卓を片づけました。船会社の社長は肘掛椅子に座って、煙草を一本、また一本と吸っています。ルイはおそらく眠りかけてでしょう。葉巻はまだ歯にくわえたままですが、煙は少しも見えませんから」
「まだ奴に飲ませたのか?」
「暖炉の上にあった瓶から、グラスになみなみと一杯です」
「アルマニャック(ブランデー)だな」と、メグレはぼやいた。
「おや!三階に明かりがつきました。女中が寝に行くのでしょう。村長が立ち上がります。彼は・・・」
向こうの、酒場の方で、大きな声がした。自動車のエンジン音。その声はかろうじて聞き取れる。
「百メートル?家の中ですか?」
「いいえ、正面です」

メグレは動き出した車の方へ歩いていった。村長に気づかれないよう、彼はその車を村長の別荘からかなり離れたところで止めた。制服姿の男たちだとわかった。
「何かわかったか?」
「エヴルーからです。黄色い車の男が逮捕されたそうです」
「誰だ?」
「待ってください!男は抗議しています。大使に訴えると脅しているそうです」

「外国人か?」
「ノルウェー人です。エヴルーが電話で名前を言ってきましたが、聞き取れませんでした。マルティノー……それともモティノー……。身分証明書はきちんとそろっているそうです。憲兵隊が、この男をどうすればいいかと聞いています」
「黄色い車ごと、ここへ連れてこさせろ。憲兵の中に一人くらい運転できる者がいるだろう。君たちはカーンへ飛ばせ。グランメゾン夫人がパリに滞在するとき、どこに泊まるのか調べるんだ」
「それなら、さっきもう聞きました。ラスパイユ大通りのホテル・ド・リュテスです」

「カーンから電話して、夫人が到着したか、何をしているか確かめろ。待て。もしそこにいるなら、私からの依頼として、司法警察に刑事を一人出してもらい、目立たないように夫人を尾行させろ」
車は狭い道で向きを変えるのに、三度も切り返した。メグレはふたたびリュカのいる塀の方へ向かったが、リュカはちょうどそこから降りようとしていた。

「何をしている?」
「もう見るものはありません」
「二人は出ていったのか?」
「いいえ。でも、村長がカーテンに近づいて、完全に閉めてしまいました」

百メートルほど先では、グラスゴーからの船がゆっくりと水門へ入っていくのが見え、英語で命令が出されるのが聞こえていた。突風が警部の帽子をそちらの方へ吹き飛ばした。
三階の窓は突然闇に沈み、そのため、別荘の正面はすっかり暗くなった。
脚注
- 1
トーピードボディ(torpédo)とは、1920〜30年代に流行したオープンカーの車体スタイルです。魚雷(torpille)のように流線型で細長いボディが特徴で、幌(ほろ)を畳むと完全にオープンになります。当時のフランスでは高級・スポーティーな車のスタイルとして人気がありました。
↩︎
WのナンバーはフランスのWナンバープレートのことで、現在も同じ慣習が残っていますが、当時のフランスでは販売店が売り出し中の車に「W」で始まるナンバープレートを仮につけていました。つまり「まだ正式な持ち主がいない販売中の車」という目印です。マルティノーが買ったばかりの中古車にもこのWナンバーがついていたため、カーンの警察がすぐに追跡できたわけです。








