霧の港
第六章 階段からの転落
ホテルの主人は嘘をついたわけではなかったが、彼が伝えたそのニュースは、控えめに言っても大げさだった。グランメゾンは寝込んでなどいなかったのだ。
リュカを浚渫船の見張りにやったあと、メグレがノルマンディー風の別荘へ向かうと、正面の窓の向こうに、部屋で休んでいなければならない病人らしい、おきまりの姿勢をした人影が見えた。
顔立ちは見えなかった。だが、それは明らかに村長だった。

部屋の奥には、もうひとり誰かが立っていた。男だったが、それ以上誰なのかはわからなかった。
メグレが呼び鈴を鳴らしたそのとき、中では、玄関の扉を開けに来るだけにしては、必要以上に人が行き来する気配がした。ようやく女中が姿を見せた。中年の、かなり無愛想な女だった。訪ねてくる者すべてに対して、計り知れないほどの軽蔑を抱いているにちがいなかった。というのも、一言も口をきこうとしなかったからだ。

扉を開けると、女中はホールへ通じる数段の階段を上っていき、扉を閉めるのはメグレにまかせた。それから両開きの扉をノックし、脇へ寄った。警部は村長の書斎へ入った。
そのすべてことに、どこか奇妙なところがあった。強烈な異常さではないが、ちょっと引っかかる細かいところがいくつもあった。そして少し不自然な空気も漂っていた。

家は大きく、ほとんど新築で、海岸沿いならどこにでも見かけるような建築様式だった。
だが、アングロ・ノルマンド・カンパニーの株の過半数を持つグランメゾンの財産を考えれば、もっと裕福そうな家を期待してもよかっただろう。
豪華さはカーンの屋敷のために残しておいたのだろうか?
メグレが三歩ほど進んだとき、声がした。

「来ましたね、警部さん」
その声は窓の方から聞こえてきた。グランメゾンは、大きなクラブチェア1の奥に身を沈め、脚を椅子の上にのせていた。逆光のため、顔立ちはよく見えなかったが、つけ襟の代わりに首に巻いたスカーフと、顔の左半分を押さえている手は見えた。
「おかけください」
メグレは部屋を回りこみ、船主の正面に来ると、ようやく腰を下ろした。彼は笑いをこらえるのに少し苦労した。目の前の彼の姿が、予想外だったからだ。

グランメゾンの左の頬は、手で隠しきれないほど腫れ上がり、唇もふくらんでいた。だが、村長がとくに隠そうとしていたのは、大きな黒いあざに囲まれた片目だった。
だが、その船主がそれでもなお威厳を保とうとしていなければ、笑うほどではなかっただろう。彼は表情を変えなかった。攻撃的な疑いの目で、メグレを見ていた。
「捜査の結果を知らせに来たのですか?」
「いやいや。先日、検察の連中と一緒のときに、あなたがあまりに親切に迎えてくれたので、そのお礼を言いに来ただけです」
メグレは決して皮肉な笑みを浮かべなかった。むしろ逆だった!皮肉を言えば言うほど、彼はまじめな表情を崩さなかった。
彼の視線は書斎を見回していた。壁には貨物船の図面や、アングロ・ノルマンド社の船の写真が飾られていた。家具はありふれたもので、質の良いマホガニーではあったが、それ以上ではなかった。机の上には、いくつかの書類、手紙、電報があった。

そして最後に、ピカピカに磨き上げられた床の表面を、警部の視線は楽しそうにさまよっていた。
「事故にあったとか?」
村長はため息をつき、脚を動かして、ぼそりと呟いた。
「階段を下りるときに、踏み外してしまってね」
「それは今朝?奥さんは驚いたでしょうな!」
「妻はもう出かけていました」
「たしかに、海辺で過ごすには向かない天気だ!鴨猟でもするなら別だが。奥さんは娘さんとカーンに?」
「パリです」

船主は気取らない身なりをしていた。暗い色のズボン、灰色のフランネルのシャツの上にガウン、足にはフェルトのスリッパ。
「階段の下には何がありました?」
「どういう意味です?」
「何の上に倒れたのかと?」
毒を含んだ目つき。乾いた返事。
「もちろん、床の上だよ」
それは嘘だまったくの嘘だった!床に倒れたくらいで、目のまわりに黒いあざができるわけがない!まして、そのあと首に絞められた跡など残るはずがない!
事実、スカーフがほんの少しでもずれると、メグレには、彼が隠しているあざがはっきり見えていたのだ。
「当然、家にはあなた一人だった?」
「なぜ当然だと?」
「事故というものは、助けてくれる人がいないときにかぎって起こるものです」
「女中は買い物に出ていてね」
「ここには女中だけ?」
「庭師もいるが、買い物があってカーンへ行ってます」
「さぞや痛かったでしょう」
村長が何より不安になったのは、メグレが明らかに真剣だったからだ。その声はほとんどいたわるようにさえ聞こえたのだ。
まだ三時半にすぎなかった。それでも、もう夜が落ちはじめ、薄暗がりが部屋の中へ広がっていた。
「よろしいですか?」

彼はポケットからパイプを取り出した。
「葉巻がよければ、暖炉の上にありますよ」
部屋には箱が山積みになっていた。お盆の上に、古いアルマニャックの瓶が一本。ニスを塗ったピッチパイン材の背の高い扉があった。
「ところで、捜査の方は?」

メグレはあいまいな身ぶりをして、客間に通じる扉を見ないように、気をつけていた。その扉は、不思議な揺れ方をしていたのだ。
「何の成果もなし?」
「ありません」

「私の意見を言いましょうか?。これは複雑な事件だと思わせたのが間違いだった」
「全くです!」と、メグレは低い声で言った。
「まるでこの事件に何か複雑な点があるとでもいうように!ある夜、一人の男がいなくなり、一か月間、何の音沙汰もなくなる。六週間後にパリで見つかる。頭蓋骨は割られ、手術され、記憶を失っている。家へ連れ戻されると、その日の夜に毒殺される。そのあいだに、ハンブルクから三十万フランが銀行口座に振り込まれている。簡単だ!わかりやすい!」
今度ばかりは、村長も警部の誠実そうな口ぶりにもかかわらず、騙されようがなかった。

「いずれにしても、あなたが考えているより、もっと単純かもしれない。仮に、それが極めて謎めいた出来事だとしても、わざわざ不安な雰囲気を作り出さない方がいいと私は思うがね!そういう話をああいうカフェで言い続けていると、もともとアルコールで弱っている頭が、ますますおかしくなってしまう」
厳しく、探るような視線が、メグレに向けられていた。村長は一言一言を切り話すように、ゆっくりと話していた。それは、まるで裁判が始まったかのようだった。
「その一方で、警察は然るべき立場の者に、何一つ情報を求めてこない!この土地の村長である私は、港の方で何が起きているのか、何も知らされていない」
「お宅の庭師は、エスパドリーユ2(縄底の靴)を履いますか?」

村長はすばやく床に目をやった。そこには、ワックスの上に足跡が見えていた。縄を編んだ靴底の模様が、くっきりと残っていた。
「知りませんよ!」
「失礼。話の腰を折ってしまって。ちょっと思いついたことがあったもので。それで、何でしたっけ?」
しかし、話の流れは切れてしまっていた。グランメゾンはぼそぼそと言った。
「上の葉巻の箱を取ってもらえますかな?それです。ありがとう」

彼は一本に火をつけたが、あごを大きく開けすぎたために、痛そうにため息をついた。
「結局、捜査はどこまで進んでいるのですか?興味深い情報が何も入らないはずはないでしょう」
「ほとんど何も!」
「妙ですね。港の連中は、たいてい想像力にはこと欠かないものですがね。とくに、食前酒を何杯か飲んだあとなら」
「奥さんをパリへやったのは、こういう一連の騒ぎを見せないためですか?それに、これからまだ起こるかもしれない騒ぎもあって?」
これは戦いではなかった。それでも、双方に敵意があるのは感じられた。おそらく、ただ二人の男がそれぞれ代表している社会階層の違いでもあった。
メグレはラ・ビュヴェット・ド・ラ・マリーヌ(海軍酒場)で、水門係や漁師たちとグラスを合わせる男だった。

村長は検察官たちを、紅茶とリキュールと小菓子でもてなす男だった。
メグレはただの男だ。なんの肩書きもない世間一般の一人でしかなかった。グランメゾンは、正式に定められた階層の人間だ。小さな町の名士で、古いブルジョワ家系の代表で、事業がうまくいき、安定した評判の船主だった。
たしかに、彼の振る舞いは民主的に好ましいものに見えたし、ウイストルアムの通りで住民たちに気軽に声をかけていた。しかし、その民主的態度は、選挙向けの見下した振る舞いなのだ!それはお決まりの活動の一つにすぎない。
メグレはほとんど恐ろしいほどのどっしりした強さを感じさせた。赤みがかった肉づきのよい顔をしたグランメゾンは、取り繕った尊大さをすぐに失い、狼狽した様子があらわになった。そこで、優位を取り戻そうとして、彼は腹を立てた。

「ムッシュー=メグレ・・・」と彼は言いかけた。
その二つの言葉の発音のしかただけで、すでにひとつのポエムのようだった。
「ムッシュー=メグレ。私はあえて申し上げますが、この村の村長として・・・」
警部が立ち上がった。それがあまりにも自然な動作だったので、相手は目を丸くした。そしてメグレは扉の一つへ歩いていき、極めて平然としてそれを開けた。
「さあ、入れ、ルイ!しょっちゅう扉が動くのを見せられ、その向こうでお前の息づかいを聞かされるのは、いらいらする!」

もし芝居じみた登場を期待していたとすれば、メグレはあてが外れたにちがいない。グラン・ルイは素直に従い、いつものように肩と頭を傾けたまま、書斎へ入ってきた。そして床をじっと見つめていた。
しかし、それは気まずい立場に置かれた男の態度とも言えたし、金持ちで重要人物の屋敷へ通されたただの船乗りの態度とも言えた。
一方、村長は正面を見つめながら、葉巻の煙を深く吸い込んでいた。
もうほとんど何も見えなかった。外では、すでにガス灯がともっていた。
「明かりをつけてもいいか?」とメグレが言った。
「少し待ってください。まずカーテンを閉めてください。通行人に見られる必要はありませんから。そうです。その左のひもです。ゆっくりと」

グラン・ルイは部屋のまんなかに立ったまま、動かなかった。メグレは電灯のスイッチを回し、火の絶えないストーブのほうへ歩いていった。そして何気ないしぐさで、火かき棒をつつきはじめた。
それは彼の癖だった。それに、考えごとをしているとき、火の前に立って、両手を背中に回したまま、腰まわりが熱くなるまでじっとしているのも彼の癖だった。

状況に何か変化があったのだろうか?いずれにせよ、グランメゾンは、深く考え込んでいる警部を見ながら、少し嘲るような視線を向けていた。
「グラン・ルイは、あなたが・・・、そのあなたの事故のとき、ここにいたのか?」
「いや!」と、グランメゾンがそっけない声で答えた。
「残念だ!たとえば階段を転げ落ちて、彼の素手の拳の上に落ちたことにできただろうに」
「それであなたはそれを港の小さなカフェで大げさな話にして、不安をさらにかき立てることもできたと・・・。もういい加減にしませんか、警部さん?われわれは二人です。この事件に取り組む二人の男です。あなたはパリから来た。あなたはあちらからジョリス船長をみじめなありさまで連れ帰った。そしてあのようにされたのは、ウイストルアムではないことは、すべてが物語っている。彼が殺されたとき、あなたはここにいた。あなたは自分の好きなように捜査を進めている」

その声は厳しかった。
「私はもう十年近く、この土地の村長をしている。私はここの住民たちをよく知っている。彼らに何かあれば自分の責任だと思っている。村長として私は同時に地元警察の責任者も兼ねている。だから!」
彼は一瞬言葉を止め、葉巻を一口吸った。灰が崩れ、ガウンの上にぱらぱらと散った。
「あなたが酒場を彷徨いているあいだに、私は私の方で動いている。あなたが気に入らなくてもね」
「それでグラン=ルイを呼び出したわけだ」
「必要だと思えば、ほかの者も呼び出しますよ!さて、もう私に伝えるべき大事なことは何もありませんな?」
彼は少し足をしびれさせながら立ち上がり、訪問者を戸口まで送ろうとした。

「ルイが私について来ても、差し支えはないでしょう」とメグレはつぶやいた。
「昨夜、すでに話を聞いた。まだいくつか聞くことが残っている」
グランメゾンはどうぞという風に手を振った。だが、グラン=ルイは動かなかった。まるでそこに釘付けにされたように、じっと床を見つめていた。
「来るか?」
「いや!まだ行かない」
それは唸り声だった。ジュリーの兄の言葉はどれもそんなふうだった。

「見てのとおり」と村長は言った。
「私はこの男があなたについて行くことに、少しも反対していません!そのことは認めていただきたい。あとで私があなたの邪魔をしたなどと言われては困りますからね。私はいくつか話を聞くために、グラン=ルイを呼んだのです。もしこの男が残りたいと言うなら、おそらくまだ私に話すことがあるのでしょう」

それでも、今度はその場の空気に不安が漂っていた!空気だけではなかった。不安だけでもなかった。村長の目には、ほとんど恐怖を感じているのが読み取れた。
グラン=ルイは笑っていた。満足したけもののような、ぼんやりした笑いだった。
「外で待っている!」と警部は彼に言った。
だが返事はなかった。村長だけがはっきりと言った。
「またお目にかかれるのを楽しみにしております、警部さん」
扉は開いていた。女中が台所から駆けつけ、何も言わずむっつりした顔で、メグレより先に玄関の扉まで行って案内し、彼の背後で扉を閉めた。

道には人影がなかった。百メートルほど先に、一軒の家の窓に明かりが一つ見え、それから間をおいてまた明かりが見えた。<リヴァ=ベラ>街道3沿いの家々は、かなり広い庭に囲まれているからだ。
メグレは両手をポケットに入れ、背を丸めて数歩歩いた。庭の柵の端まで来ると、その先には空き地が広がっていた。
ウイストルアムのこの一帯は、砂丘に沿って建てられている。庭を過ぎれば、あとは砂と硬い草むらしかない。
闇の中に人影があった。声がした。
「あなたは、警部・・・」
「リュカか?」

二人は互いにすばやく近づいた。
「ここで何をしている?」
リュカは囲いから目を離さなかった。ごく低い声で話した。
「浚渫船の男が・・・」
「出てきたのか?」
「ここにいます」
「いつからだ?」
「ほんの十五分ほど前、別荘のちょうど裏手に」
「そいつは柵を乗り越えたのか」
「いいえ。誰かを待っているようでした。私はあなたの足音が聞こえたので、見に来たんです」

「案内しろ」
二人は庭に沿って歩き、別荘の裏手に回った。リュカが思わず唸り声をあげた。
「どうした」
「いなくなってる・・・」
「確かか」

「タマリスク4の茂みのそばに立っていました」
「中に入ったと思うか」
「わかりません」
「ここにいろ。どんなことがあっても動くな」
メグレは街道の方へ走って。誰の姿も見えなかった。書斎の窓から一筋の光が漏れていたが、窓枠までよじ登ることはできなかった。

もうためらうことはなかった。庭を横切り、玄関のベルを鳴らした。女中はほとんどすぐに扉を開けた。
「村長の書斎にパイプを忘れたようだ」
「見てまいります」
女中は彼を敷居に残した。だが彼女のが奥に消えるとすぐ、メグレは中へ入り、音を立てずに数段を上がり、書斎をのぞき込んだ。

村長はまだ同じ場所にいた。脚を伸ばしていた。小卓が彼のそばに運ばれていた。その小卓を挟んだ向こう側に、グラン=ルイが座っていた。
そして二人の間には、チェッカー盤5が置かれていた。
元囚人は駒を一つ進め、吠えるように言った。
「あなたの番だ」
村長は、まだパイプを探している女中をいらだたしげに見ながら、言った。
「ここにはないだろう。警部には、どこか別のところで失くしたのだろうと伝えなさい。君の番だ、ルイ」
するとルイは、なれなれしく、自信たっぷりに言った。

「このあとで飲み物を出してくれよ、マルグリット」
注釈
- 1 クラブチェア(fauteuil club)とは、19世紀後半から20世紀初頭にかけてフランスやイギリスで普及した、「全面を厚い革で覆い、たっぷりとクッションを効かせた、一人掛けの豪華な安楽椅子(肘掛け椅子)」のことです。もともとは、イギリスの「紳士クラブ」(富裕な男性が社交したり、読書や喫煙をしたりする、会員制の施設)で使われていたことから「クラブチェア」と呼ばれるようになりました。↩
- 2 エスパドリーユ(espadrilles)麻縄を編んだ靴底に、キャンバス地や麻布のアッパーを組み合わせた軽い靴です。もともとはスペインのバスク地方発祥で、フランス南西部の農民や労働者が履いていた実用的な履物ですが、1930年代にはフランス全土で庶民の夏の定番として広く普及していました。革底や ゴム底と違い、編み縄の模様が独特の痕跡を残すため、メグレはその足跡を見て、この家でエスパドリーユを履く労働者といえば、庭師だと推理しました。↩
- 3 リヴァ=ベラ(Riva-Bella)はウィストルアムのすぐ隣にある海浜リゾート地です。ウィストルアムから海岸沿いに続く道がリヴァ=ベラ街道(la route de Riva-Bella)で、グランメゾンの邸宅はその街道沿いにあります。当時のノルマンディー海岸には、こうした小さなリゾート地がいくつか点在しており、裕福な市民や船主などが広い庭付きの別荘を構えていました。グランメゾンの邸宅もそうした環境の中にあることが、この一文から伝わってきます。↩
- 4 タマリス(tamaris)はタマリスク(柽柳ギョリュウ)という低木で、地中海沿岸やフランスの大西洋・ノルマンディー海岸によく見られる植物です。細い枝に小さな葉が密生し、ピンクの小花をつけます。海岸の砂地や砂丘に強く、防風林としても植えられています。
グランメゾンの邸宅の裏手にも、こうしたタマリスクの茂みがあり、謎の人物がその陰に潜んでいたわけです。↩ - 5 チェッカー「jeu de dames」は西洋式の将棋のような盤上ゲームのことです。チェス(échecs)とは別のゲームです。
チェッカーは8×8のマス目の盤を使い、丸い駒を斜めに動かして相手の駒を飛び越えて取るゲームです。フランスでは「jeu de dames」と呼ばれ、チェスより単純で庶民的なゲームとして親しまれています。↩




