霧の港
第五章 ノートルダム・デ・デューヌ

夜が明けると、メグレは足を引きずり、湿り気を含んで重くなった外套を着たまま、ホテル・ド・リュニヴェールへ戻った。パイプを次から次へと吸いつづけたせいで、喉はからからだった。あたりはすっかり人けがなかった。それでも台所には、火をおこしている主人がいた。
「一晩じゅう外にいたんですか?」
「ああ。できるだけ早く、部屋へコーヒーを持ってきてくれ。それから、風呂には入れるか?」
「ボイラーに火を入れなければなりません」
「なら、結構」
灰色の朝だった。相変わらず霧があったが、その霧は明るく、光を含んでいた。メグレはまぶたがひりひりし、頭の中が空っぽで、部屋でコーヒーを待つあいだ、開けた窓の前にどっしりと立った。

妙な夜だった。驚くようなことは何もしていなかった。発見と呼べるものすら、ほとんどなかった。それでも、この事件を知るうえで、彼は前へ進んでいた。すでに持っていた手がかりに、多くの要素が加わっていた。
サン・ミシェルの到着。ランネックの態度。あれを怪しい態度と呼べるだろうか?そこまでは言えない。それでも、どこかはっきりしなかった。だが、デルクールもときどきはっきりしないところがあった。港にいる連中はみんなそうだった。
たとえば、グラン=ルイの態度は完全に怪しかった。彼は帆船に乗ってカーンまで行かなかった。使われていない浚渫船に寝に行った。メグレはグラン=ルイがそこに彼一人ではいなかったと確信していた。
そして、少しあとで、警部はサン・ミシェルが港へ入る前に、小舟をなくしていたことを聞いていた。桟橋の先で、彼はいかにもその場所には不似合いなものを拾っていた。金の万年筆だった。

杭の上に組まれた木製の桟橋だった。いちばん先、緑の灯の近くに、海へ下りられる鉄のはしごがあった。小舟が見つかったのは、その辺りだった。
つまり、サン・ミシェルは到着したとき、ウイストルアムで人に見られたくない乗客を乗せていたのだ。その客は小舟で岸に着き、そのままその小舟を漂流させておいた。鉄のはしごの上で、桟橋へはい上がろうと身体を二つに折り曲げたまさにそのとき、金の万年筆がポケットから落ちたのだ。

そしてその男は浚渫船に辿り着いた。そこへルイが合流することになっていた。
この再現はほぼ数学的に正確なものだった。この状況を説明する方法は、ほかになかった。
結論。正体不明の男がウイストルアムに隠れている。用もなく来たわけではない。つまり、その男には果たすべき仕事がある。しかも、金の万年筆を使うような世界の人間なのだ!
船乗りではない!浮浪者でもない!この高級な万年筆から察すれば、上等な服を着ているはずだった。田舎で言うところの、『ムッシュー』(紳士)というやつにちがいなかった。
それに、冬のウイストルアムでは、紳士が人目につかずに歩くことはできない。昼のあいだ、その男は浚渫船を出られないだろう。だが、夜になれば、ここへ来た目的の仕事に取りかかるのではないか?

メグレは不機嫌なまま、見張りにつくしかなかった。若い刑事の仕事だった。霧雨の中で、何時間も、浚渫船の入り組んだシルエットを見つめつづける仕事だった。
何も起こらなかった。誰も船から出てこなかった。夜が明け、いま警部は熱い風呂に入れないことに腹を立てながら、数時間でも眠るべきかとベッドを見ていた。

主人がコーヒーを持って入ってきた。
「お休みにならないんですか?」
「わからん。郵便局へ電報を持っていってくれるか?」
いつも一緒に仕事をしているリュカ主任刑事へ、すぐに来いという命令だった。メグレは次の夜にまた見張りをする気にはなれなかった。
開いた窓からは、港、ジョリス船長の家、引き潮があらわにしている港の砂浜が見渡せた。
メグレが電報を書いているあいだ、主人は外を眺めていた。そして、何気ない口ぶりで言った。
「おや。船長の家政婦が散歩に出かける」

警部は顔を上げ、ジュリーが門を閉め、浜のほうへ足早で歩いていくのが見えた。
「そっちには何があるんだ?」
「どういう意味ですか?」
「どこへ行けるんだ?家はあるのか?」
「何もありません!浜だけです。防波堤で仕切られているし、軟弱で穴もできてて、誰も行きません」
「道はないのか。道路は?」
「ありません!オルヌ川の河口へ出るだけで、川沿いはずっと沼地です。ああ!そうだ!沼地には、鴨猟の隠れ小屋があります」
メグレはもう出ていくところだった。額にしわを寄せていた。大股で橋を渡り、浜へ着いたとき、ジュリーとの間は二百メートルほどだった。

あたりは人けがなかった。霧の中で、生きているものといえば、鳴きながら飛ぶかもめだけだった。右手には砂丘があり、警部は見られないようにその中へ入った。
空気は冷えていた。海は静かだった。波打ちぎわのさざなみが、息をするような調子でくずれ、貝殻の砕けるような音を立てていた。
ジュリーは散歩をしているのではなかった。小さな黒い上着を体に強く抱き寄せ、足早に歩いていた。ジョリスが死んでから、彼女には喪服を仕立てる時間などなかった。だから、すべて手持ちのもので、黒いもの、あるいはいちばん暗い色のものを身につけていた。例えば、流行遅れの上着、毛糸の靴下、つばの垂れ下がった帽子のように。

足は砂に沈み、そのせいで歩き方はぎこちなかった。二度、彼女は振り返ったが、メグレが見つかることはなかった。彼は砂丘の小さな窪みに隠れていた。
そして最後は、ウイストルアムから一キロほどのところで、彼女は右へ曲がった。あまりに急だったので、警部は見つかりそうになった。
だが、彼女はメグレが一瞬考えたような、鴨猟用の隠れ小屋へ向かってはいなかった。枯れ草と砂ばかりの景色の中には、誰もいなかった。
あるのは、小さな崩れかけた建物だけだった。一つの壁は一面まるごとなくなっていた。海に面して、大潮のときには波が押し寄せるはずの場所から五メートルほどのところに、おそらく数百年前、人々が礼拝堂を建てていた。

丸天井は半円アーチ形だった。なくなった壁から、残りの壁の厚さが見えていた。硬い石で、一メートル近くあった。
ジュリーは中へ入り、礼拝堂の奥へ向かった。するとすぐ、メグレには小さなものを動かす音が聞こえた。ほとんどまちがいなく、貝殻だった。
彼は音を立てずに数歩進んだ。奥の壁に、金網で閉じられた小さなくぼみが見えた。そのくぼみの下には、ごく小さな祭壇のようなものがあり、ジュリーがかがみこんで、何かを探していた。
彼女は突然振り返った。警部だと気づいた。メグレは隠れる暇もなかった。彼女はあわてて言った。
「ここで何をしているんですか?」
「あんたこそ?」
「わたしは……、ノートルダム=デ=デューヌにお祈りに来たんです」

彼女は不安げだった。彼女の姿がすべて何かを隠していることを物語っていた。夜もあまり眠らなかったにちがいない。目が赤かった。きちんととかしていない髪が少しだけ、帽子からはみ出していた。
「ほう。ここはノートルダム=デ=デューヌの礼拝堂なのか?」
たしかに、金網の奥のくぼみには、聖母像があった。とても古く風化していて、もはやはっきりしない形があるだけだった。

くぼみのまわりの石には、通りがかりの人たちが、鉛筆で、小刀で、あるいは先のとがった石で、いくつもの言葉を刻みつけていた。それらは互いに入り組んでいた。
デニーズが試験に受かりますように。ノートルダム=デ=デューヌ、ジョジョが早く字を覚えられますように。家族みんなが健康になりますように。とくにおじいさんとおばあさんにお与えください。
もっと世俗的な書き込みもあった。矢に射抜かれたハートマーク。
ロベールとジャンヌ、永遠に
かつては花をつけていた枯れた小枝が、金網にひっかかったまま残っていた。しかし、祭壇の残骸に積み上げられた貝殻がなければ、この礼拝堂も、ほかにいくらでもある礼拝堂の一つにすぎなかっただろう。
貝殻はいろいろな形をしていた。そして、そのどれにも言葉が書かれていた。たいていは鉛筆だった。子どもや、素朴な人たちのたどたどしい字もあれば、もっとしっかりした字もいくつかあった。
ニューファンドランドの漁がうまくいきますように。お父さんが再契約しなくてすみますように。

床は固く踏みしめられた土だった。崩れた壁の間から、海岸の砂と、白く霞んだ空気の中で銀色に光る海が見えた。ジュリーはどういう顔をすればよいのかわからず、思わずおびえた目を貝殻へ向けていた。
「あんたも一つ持ってきたのか?」とメグレがたずねた。

彼女は首を振って否定した。
「だが、私が来たとき、あんたはその貝殻を動かしていた。何を探していたんだ?」
「何も……わたしは」
「あんたは?」
「何でもない!」

そして彼女はいっそう強く上着を体に抱き寄せ、頑固そうな顔つきになった。
今度はメグレが貝殻を一つずつ手に取って、そこに書かれた言葉を読んでいった。そして彼はふいに笑みを浮かべた。大きなハマグリに、こう綴られていた。

ノートルダム=デ=デューヌ、兄のルイがうまくいきますように。そして私たちみんなが幸せになれますように。
日付は、『九月十三日』つまり、この素朴な奉納物はジョリス船長が姿を消す三日前にここに置かれていたのだ!
そして今、ジュリーはそれを取り戻しに来たのではないのか?
「これを探していたのか?」
「あなたに何の関係があるんですか?」
彼女はその貝殻から目を離さなかった。今にもメグレに飛びかかって彼の手から奪い取ろうとしているように見えた。

「返してください!元の場所に戻してください!」
「元の場所へは戻す。だが、あんたもそこに置いたままにしておかなくてはならない。来るんだ!戻りながら話そう」
「話すことなんて何もありません」

二人は歩き出した。柔らかい砂のせいで、足が沈み前かがみになっていた。ひどく冷えていて、鼻は赤くなり、肌はつやつやと光っていた。
「あんたの兄さんは今までろくなことをしてこなかった、そうだな?」
彼女は黙った。まっすぐ目の前の海岸を見ていた。
「隠しきれないこともある。私が言っているのは、ただ彼を流刑地へ送ることになったあのことだけではない」
「当然でしょう!いつもそればかり!二十年たってもまだ言われるんでしょう」
「いや!違う。そうじゃない、ジュリー。ルイはいい船乗りだ。それどころか、人の話では、すばらしい船乗りで、航海士の代わりも務まるほどだ。ただ、ある日、行きずりの仲間と酔っぱらい、ばかなことをする。船に戻らず、何週間も働かずにうろつく。そうだろう?そういうとき、彼はあんたに頼る。あんたに、そして数週間前までは、ジョリスにも。それからまた、しばらくはおとなしく、まじめに暮らす」
「それで?」
「九月十三日に、あんたがうまくいってほしいと願った計画とは、何だったんだ?」

彼女は立ち止まり、正面から彼を見た。ずっと落ち着いていた。考える時間があったのだ。その瞳には人を惹きつける真剣さがあった。
「それが不幸を招くことは、わかっていました。でも、兄は何もしていません。誓って言います。もし兄が船長を殺したのなら、私が真っ先に兄を同じ目に合わせます」
その声には、抑えられた激しさがあった。
「ただ、たまたま偶然が重なってしまったんです。それに、あの流刑場の話が、いつも持ち出されます。一度あやまちを犯した人間には、その後に起こることの責任を、何でも背負わせるんです」
「ルイの計画とは何だったんだ?」

「計画ではありません。ごく単純な話でした。兄はとても金持ちの紳士に会ったんです。ル・アーヴルだったか、イギリスだったか、もう覚えていません。名前は教えてくれませんでした。陸の暮らしに飽きて、旅をするためのヨットを買いたがっている紳士でした。その人が、船を探してほしいとルイに頼んだんです」
二人はまだ砂浜に立ち止まっていた。そこから見えるウイストルアムのものといえば、より白っぽい空を背に、きつい白さで浮かび上がる灯台ぐらいだった。

「ルイはその話を船長にしました。このところ、不景気のせいで、ランネックはサン・ミシェルを売りたがっていましたから。それだけのことです!サン・ミシェルは、ヨットに作り替えるにはいちばんよい沿岸船なんです。まず、話がまとまれば、兄は一万フランを受け取ることになっていました。そのうえ、買い手は兄を船長として、船で使うといういうのです。信頼できる男ということで」

彼女は最後の言葉を後悔した。皮肉に取られかねないと思ったからだ。メグレの顔に笑みが浮かぶかどうかをうかがい、『流刑場りを信頼できる男というか!』と言わないことに、感謝しているようだった。
いや!メグレは考えていた。その話のあまりの単純さに、彼自身も驚いていた。その単純さには、かえって気にかかる真実味があった。
「ただ、君はその買い手が誰なのかを知らないんだな?」

「知りません」
「君の兄さんは、どこでその男にまた会うことになっていた?」
「知りません」
「いつ?」
「すぐに、という話でした。どうやら、船の改装はノルウェーですることになっていて、一か月後には、そのヨットは地中海へ、エジプトの方へ出るはずだったそうです」
「フランス人か?」
「わかりません」
「今日、ノートルダム=デューンに来たのは貝殻を取り戻すためか?」

「見つかったら、真実とはまったく違うことを想像されると思って。信じてもらえないでしょう?」
答える代わりにメグレは聞いた:
「兄に会ったか?」
彼女はびくっとした。
「いつ?」
「昨夜か今朝?」
「ルイはここに?」

それが彼女を不安にさせ、困惑させているようだった。
「ル=サン=ミシェルが着いた」
その言葉で彼女は少し安心した。まるで帆船なしに兄が来ることを恐れていたかのようだった。
「じゃあ、カーンへ行ったんですか?」
「いや!浚渫船の一隻に泊まりに行った」
「歩きましょう!」と彼女は言った。「寒い」
沖からの風がますます冷たくなり、空が曇ってきた。
「古い船で寝るのはよくあることか?」
彼女は答えなかった。会話は自然に途切れた。二人は砂が足の下で沈む音だけを聞きながら歩いた。波が運んできた海藻を食べていた浜トビムシ1が、二人の前でぱちぱちと跳ねて逃げた。
メグレの記憶の中で二つのイメージが重なった。
『ヨット・・・、金の万年筆・・・』
彼の頭の中では自然に仕事が進んでいた。朝のうちは金の万年筆の説明がつかなかった。ル=サン=ミシェルとも、どちらかといえばだらしないその乗組員たちとも、につかわしくなかったからだ。
『ヨット・・・、金の万年筆・・・」
この方が辻褄があう!ある年齢の裕福な男が旅のためのヨットを探していて、金の万年筆を落とした・・・。しかし残る疑問は、なぜその男が帆船と一緒に港に入らず、ボートで離れ、桟橋に這い上がり、水が半分たまった浚渫船に身を隠したのか、ということだった。
「ジョリスが姿を消した夜、兄さんが君に会いに来たとき、その買い手のことは話さなかったのか?たとえば、その男が船に乗っているとか言わなかったか?」
「いいえ。その話がほとんどまとまったと言ってただけです」
二人は灯台の下まで来ていた。左手にはジョリスの家があり、庭には、船長が植えた花がまだ咲いていた。
ジュリーの顔が曇った。気落ちしたように見えた。これからどう生きていけばよいのかわからない人のように、あたりを見回した。
「遺言のことで、そのうち公証人のところへ呼ばれるだろう。君は金持ちになったわけだ」
「そんな手には乗りません」と彼女はそっけなく言った。
「どういう意味だ?」
「わかっているくせに。財産の話なんて。船長は金持ちではありませんでした」
「あんたはわかっていない」
「船長は私に隠しごとなんかしませんでした。もし何十万フランも持っていたら、私に言ってくれたはずです。それに去年の冬、二千フランの猟銃を買うのをためらったりしなかったはずです。あんなに欲しがっていたのに。町長の銃を見て、値段まで聞いていたんです」

そのとき、二人はもう門のところにいた。
「入りますか?」
「いや。あとでまた、会いに来るかもしれない」
彼女は、一人きりになる家へ入るのをためらっていた。

これといったことのない数時間が過ぎた。メグレは、日曜日の散歩客が、自分にはわからない不思議なものを本能的な敬意をもって眺めるように、浚渫船のまわりをうろついた。太い管、バケット、鎖、巻き上げ機があった。
十一時ごろ、彼は港の連中と食前酒を飲んだ。

「グラン=ルイを見かけなかったか?」
朝のかなり早い時刻に、ルイは見られていた。酒場でラムを二杯飲み、大通りに沿って姿を消したという。

メグレは眠かった。夜のあいだに、風邪をひいたのかもしれない。いずれにせよ、彼は、流行性の風邪をもらったときの人間のような気分だった。それはいつもよりやる気なく見える、彼の態度と、その表情に表れていた。
彼はそんなことを気にかけなかった。そしてそれはかえってまわりの不安を高めていた。仲間たちはこっそり彼を見ていた。活気がなかった。デルクール港長がたずねた。

「小舟はどうすればいいんですか?」
「どこかにつないでおけ!」
メグレはさらに場違いな質問をした。
「今朝、通りでよそ者を見かけなかったか?浚渫船のあたりで、変わったことは何もなかったか?」
誰も何も見ていなかった。だが、彼がそう言ったからには、みんなは何かが起きると待ち構えまえていた。
奇妙だった。誰もが悲劇的な事件を待っているのだ!虫の知らせだろうか?事件の連鎖はまだ完全に終わっておらず、鎖のリングが一つ欠けているという感じだろうか?

水門を通過しようとする船の汽笛が鳴り、男たちは立ち上がった。メグレは重い足どりで郵便局へ行き、自分宛てに何か届いていないか見に行った。リュカからの電報が届いており、二時十分に着くと知らせてきた。
そしてその時刻、カーンからウイストルアムまで運河沿いを走る小さな汽車が、遠くに姿を見せた。一八五〇年ごろの形式と同じような客車を引っ張った、子どものおもちゃのような車両だった。蒸気を噴き上げ、ブレーキを軋ませながら港の前に止まった。

リュカが降りてきた。手を差し出したが、メグレのむっつりした顔に驚いていた。
「どうしました?」
「大丈夫だ!」
リュカは、上司であるにもかかわらず、笑わずにはいられなかった。
「そうは見えませんよ!それより、私は昼飯を食べていないんです」
「ホテルへ来い。何か食べるものは残っているだろう」
二人は広いホールに腰を下ろし、そこで主人がリュカ主任刑事に食事を出した。二人は小さな声で話していた。ホテルの主人は、口をはさむタイミングを伺っているようだった。
チーズを運んできたとき、主人はいまがこの時とばかりに、口を開いた。
「町長に何があったか、ご存じですか?」

メグレはびくっとした。あまりに不安げだったので、主人はうろたえた。
「大したことではありません。つまり、さっき、ご自宅で階段を下りている途中に、転んだんです。どうしてそんなことになったのかわかりませんが、顔がひどいことになって、寝込まなければならなくなったそうです」
そのとき、メグレにひらめきが走った。この言葉はふさわしい。というのも、彼の鋭い思考は、一秒のうちに出来事を組み立て直したからだ。
「グランメゾン夫人はまだウイストルアムにいるのか?」
「いいえ。今朝早く、娘さんと一緒に出かけました。カーンへ行ったのだと思います。車で出ました」
メグレはもう風邪気味ではなくなっていた。彼はぼそりと言った。
「食べ終わるまで、まだかかるのか?」
するとリュカは落ち着き払って答えた。

「もちろんです。胃がいっぱいの人から見ると、食欲のある人間はとんでもない怪物に見えるんでしょうね。三分ということにしておきましょう。ご主人、カマンベールはまだ下げないでください」
脚注
- 1
「poux de mer」は直訳すると「海のシラミ」ですが、実際には磯蚤(いそのみ)または砂浜蚤(すなはまのみ)と呼ばれる小さな甲殻類です。
↩︎
正式にはヨコエビの一種(Talitrus saltator)で、砂浜の海藻の下に大群で生息しています。体長は数ミリほどで、人が近づくと一斉に跳ね逃げるのが特徴です。
日本では「ハマトビムシ」という名前で知られており、砂浜の打ち上げられた海藻の下に大量に生息しています。日本全国の砂浜で見られる非常に一般的な生き物です。
海水浴や砂浜の散歩をしたことがある方なら、海藻をひっくり返したときに小さな生き物がぴょんぴょん跳ね回るのを見たことがあるかもしれません。あれがハマトビムシです。
ただし一般の日本人には「磯蚤」「砂浜蚤」より「ハマトビムシ」の方が馴染みがある言葉かもしれません。翻訳では「磯蚤」のままでも、「ハマトビムシ」に変えても自然です。
この場面の「潮が運んできた海藻を食べていた磯蚤が、二人の前でぱちぱちと跳ね逃げた」という描写は、砂浜を歩く人間の足音に驚いて無数の磯蚤が一斉にはじけ飛ぶ様子を表しており、冬の人けない砂浜の情景をリアルに描いたシムノンらしい細かい観察です。




