霧の港

第一章 家の中の猫

三時ごろにパリを発ったとき、秋の終わりの冷たい日ざしの中で、人の群れはまだ忙しくなく動いていた。それから、マントのあたりで、コンパートメントのランプがともった。エヴルーを過ぎるころには、外はすっかり暗くなっていた。そして今は、曇った窓ガラスを水のしずくが流れ、その向こうに、線路の灯をおぼろげにする、深い霧が見えていた。

隅に深く腰を落ち着け、首の後ろを座席の背もたれに預けて、メグレは、半ば目を閉じたまま、目の前にいる、互いにまるで違う二人を、なんとなく見つめつづけていた。

ジョリス船長は眠っていた。あの見慣れた頭の上で、かつらが斜めにずれ、スーツはしわだらけだった。

ジュリーは、クロコダイル模様の合皮のバッグに両手を置き、疲れているのに、考えごとをしているような姿勢を保とうとしながら、どことも知れない一点を見つめていた。

ジョリス!ジュリー!

パリ司法警察のメグレ警部は、こんなふうに人が風のように自分の暮らしへ入り込み、何日も、何週間も、あるいは何か月も付き合わされた挙句、そのあとまた名もない人混みの中へ沈んでいくのを見ることに慣れていた。

車輪の音が、彼の思いを刻んでいく。それは、どの捜査の始まりでも同じ思いだった。今度の出来事は、興味深いものものになるのか、平凡なものになるのか、胸糞悪いものになるのか、それとも悲劇的なものになるのか?

メグレはジョリスを見ていた。その唇には、かすかな笑みが浮かんでいた。妙な男だ!というのも、五日のあいだ、オルフェーヴル河岸では、名前をつけようがなかったために、彼は「あの男」と呼ばれていたのだ。

大通りで拾われた男だった。バスや車のあいだを、おびえたように行ったり来たりしていたからだ。フランス語でたずねても、返事はない。七つか八つのことばを試しても、だめだった。耳の聞こえない人や口のきけない人の手話も、彼には何のききめもなかった。

気がおかしいのか?メグレの部屋で、彼の持ちものを調べた。スーツは新しく、シャツも新しく、靴も新しかった。仕立屋やシャツ屋のしるしは、すべてはぎ取られていた。身分証明はない。財布もない。ポケットの一つに、千フラン札が五枚、きれいに入っていた。

これ以上ない神経のすりへる取り調べだった!前科者台帳を調べ、身体測定記録を調べた。フランス国内にも、外国にも、電報を打った。それでも「あの男」は、疲れきるほどの問いかけにもかかわらず、朝から晩まで、人なつこくほほえんでいた!

五十歳ほどの男。足は短く、肩は広い。文句も言わず、騒ぎもせず、ほほえみ、ときどき思い出そうとしているように見えるが、すぐにあきらめてしまう。

記憶をなくしたのか?かつらが頭からずれ、頭が銃弾で割られていたことがわかった。それも、せいぜい二か月前のことだった。医者たちは感心した。これほどうまく手当てされた例は、めったにないというのだ!

また病院や診療所へ電報を打った。フランス、ベルギー、ドイツ、オランダへ。

五日間、細かい手がかりを追いつづけた。服のしみや、ポケットのほこりを調べて、妙な結果も出た。

タラの卵のくずが見つかった。つまり、タラの卵を干して粉にしたものだ。それはノルウェー北部で作られ、イワシをおびき寄せるえさに使われる。

「あの男」はそこから来たのか?スカンジナビア人なのか?いくつかの手がかりから、彼が鉄道で長い旅をしてきたことはわかった。だが、話もせず、すぐに人目を引くあのぼんやりした様子で、どうやって一人で旅をしてこられたのか?

彼の写真が新聞に載った。ウイストルアム1から電報が届いた。

身元不明者、身元判明!

電報のあとを追うように、一人の女がやって来た。いやむしろ、娘といった年頃で、メグレの部屋に現れたとき、やつれた顔で、口紅もおしろいも下手に塗りたくっていた。ジュリー・ルグラン、「あの男」の女中だった!

男は、もう「あの男」ではなかった!名前があった。身元があった!イーヴ・ジョリス。もと商船の船長で、ウイストルアムの港湾長だった。

ジュリーは泣く!ジュリーにはわからない!ジュリーは、彼に話してくれと頼みこむ!けれど彼は、だれを見るときとも同じように、やさしく、おだやかに彼女を見ている。

ジョリス船長は、九月十六日に、ウイストルアムから姿を消していた。そこは、トルーヴィルとシェルブールのあいだにある、はるか向こうの小さな港だった。今は十月の終わりだ。

その消息不明の六週間、彼はどうしていたのか?

「いつものように、水門作業の見回りに行きました。夜の潮の作業2でした。私は寝ました。次の朝、あの方は部屋に見えませんでした。それで、霧のせいで、ジョリスは足をすべらせて、水に落ちたのだろうと思われました。引っかけいかりを使って探しました。そのあと、家出だろうという話になりました」

「<リジウー>!三分停車!」

メグレは、足をのばしにホームへ出て、新しいパイプにたばこを詰めた。パリからずっと吸いつづけていたので、車室の空気はすっかり白く霞んでいた。

「ご乗車ください!」

ジュリーは、そのあいだに、パフで鼻の先を軽くたたいていた。泣いたあとで、目はまだ少し赤かった。

奇妙なものだ!きれいに見えるときがある。とても洗練されて見えるときもある。ところが別のときには、なぜだかわからないまま、垢抜けない小さな田舎娘を感じさせる。

彼女は、船長の頭のかつらをまっすぐに直した。彼女の『旦那さま』である。そしてメグレを見るその顔つきは、『この方のお世話をするのは、私の権利ではありませんか?』と言っているようだった。

というのも、ジョリスには家族がなかった。もう何年も前から、彼はひとりで、ジュリーと暮らしていた。彼は彼女を家政婦と呼んでいた。

「あの方は、私を娘のように扱ってくださいました」

そしてジョリスには、敵は一人もいない!色恋沙汰もない!道楽もない!

三十年も海を渡り歩いた男で、何もしない暮らしにはどうしてもなじめなかった。そこで、引退した身でありながら、ウイストルアムの港湾長の職を願い出た。小さな家も建てさせた。

そして、九月十六日のある晩、彼は消息がわからなくなり、六週間後にパリで、このありさまで現れたのだった!

ジュリーは、彼が既製品の灰色のスーツを着ているのを見て、がっかりしていた!彼女は、彼の船長らしい制服姿しか見たことがなかったのだ。

彼女は神経質で、落ち着きがなかった。船長を見るたびに、その顔には、いとおしさと、漠然とした恐れ、どうにもしずめられない不安が、同時に浮かぶ。たしかに彼だ!たしかに彼女の『旦那さま』なのだ。しかし、同時に、もはやまったく彼ではない。

「治りますよね?私がお世話します」

そして窓ガラスの曇りは、にごった大きなしずくに変わっていった。メグレのずんぐりした顔が、列車の揺れのせいで、右から左へ、左から右へと、小さく揺れる。落ち着いた様子で、彼は二人を絶え間なく観察していた。「三等で十分だったんですけどね、いつもそうしてますから」と言ったジュリーと、そして目を覚ましたものの、ただぼんやりした目をまわりに向けるだけのジョリス。

またカーン3で停車した。その次がウイストルアムだった。

「千人ほどの村ですよ」と、その土地の生まれの同僚が、メグレに言った。「港は小さいですが、大事な港です。入り江とカーンの町を結ぶ運河がありますからね。4五千トン以上の船もそこを通ります」

メグレは、その場所を頭の中で思い描こうとはしない。そういう遊びは、かならず裏切られるとわかっている。彼は待っているのだ。そしてその目は、まだ赤みの残る傷あとを隠しているかつらへ、たえず向いていた。

姿を消したとき、ジョリス船長には濃くしっかりした髪があった。とても黒く、せいぜいこめかみに白いものがまじる程度だった。それもまた、ジュリーをがっかりさせる原因でもあった!彼女は、髪の毛のない頭を見たくないのだ!だから、かつらがずれるたびに、急いで元に戻した。

「つまり、誰かが殺そうとしたわけだ」

撃たれたのは事実だ!だが、驚くほど見事に手当てもされている!

彼は金を持たずに出ていった。ところが、見つかったときには、ポケットに五千フランが入っていた。

妙なことはさらにある!ジュリーがふいにバッグを開いた。

「忘れていました。旦那さまの郵便物を持ってきたんです」

ほとんど何もなかった。船舶用品の店のちらし。商船船長組合の会費の領収書。まだ現役の友人たちからの絵はがきが何枚か。その中には、プンタ・アレナス5からのものが一枚あった。

カーンのノルマンディー銀行からの手紙が一通。印刷された用紙で、空いたところはタイプで埋められていた。

……ハンブルクのオランダ銀行を通じて送金された三十万フランを、あなたの口座一四一七三に入金したことを、ここにお知らせいたします……

しかもジュリーは、船長は金持ちではないと、もう十回もくり返していた!メグレは、向かいに座る二人を代わる代わる見ていた。

タラの卵。ハンブルク。ドイツで作られた靴。

そして、すべてを明らかにできるのは、ジョリスだけだ!そのジョリスは、メグレが自分を見ているのに気づいて、人のよさそうな笑みを少し浮かべている!

「カーン!シェルブール行きのお客様はそのままご乗車ください。ウイストルアム、リオン・シュル・メール、リュック行きのお客様は」

七時だった。空気の湿りがひどく、ホームのランプの光は、乳のように白い霧の中を、かろうじて抜けるだけだった。

「これから乗り物は何がある?」

人波に揉まれながら、メグレがジュリーにたずねた。

「もうありません。冬は、小さな列車が一日に二回しか走らないんです」

駅前にはタクシーがいる。メグレは腹が減っていた。向こうで何が食べられるかわからなかったので、駅の食堂で夕食をとることにした。

ジョリス船長は相変わらずおとなしかった。自分を導く人たちを信じている子どものように、出されたものを食べていた。

鉄道の係員が、しばらくテーブルのまわりを歩き、彼を見つめてから、メグレに近づいた。

「ウイストルアムの港湾長ではありませんか?」

そして人差し指を額のところでくるくると回した。そうだとわかると、彼はひどく感じ入った様子で離れていった。ジュリーのほうは、目の前のこまごましたことに気を取られている。

「こんな夕食で十二フランですって。しかもバターも使っていないのに!まるで家に着いてからは食べられなかったみたい」

同じとき、メグレが考えていることは、

『頭に一発。三十万フラン』

そして鋭い目で、ジョリスの無邪気な目の奥を深く探っているのだが、その口元には、険しいしわが寄っていた。

やって来たタクシーは、昔は金持ちの専用車だった古い車だ。座席のクッションはへたり、つなぎ目はぎしぎし鳴った。補助席は壊れていたので、三人は奥の席にぎゅうぎゅうに詰めこまれた6。ジュリーは二人の男のあいだにはさまれ、両側からかわるがわる押しつぶされている。

「庭の入り口に鍵をかけたかどうか今気になっているんです!」と彼女はつぶやく。

家に近づくにつれて、家事のことを思い出し心配になったのだ。

そして、町を出ると、車は文字どおり霧の壁に突っこんだ。馬と荷車が、わずか二メートル先にふっと現れた。幽霊の霊、幽霊の幽霊!道の両側を過ぎていくのも、幽霊の木、幽霊の家だ。

運転手は速度を落とした。時速十キロほどで走ったが、それでも自転車が霧の中から飛び出してきて、車の泥よけにぶつかった。車は止まった。けれど相手にけがはなかった。

車はウイストルアムの村を通り抜けた。ジュリーは窓を下げた。

「港まで行って、跳ね橋を渡ってください。灯台のすぐ横の家で止めてください」

村と港のあいだには、一キロほどのさびしい一本道が続いている。道は、ガス灯の青白いほたるのような光でかろうじて浮かび上がっている。橋の角に、明かりのついた窓があり、物音がしていた。

「ラ・ビュヴェット・ド・ラ・マリーヌ、海軍食堂です」と、ジュリーが言った。
「港の人たちは、たいていあそこにいます」

橋を越えると、道はほとんど道とはいえなかった。道は、オルヌ川7の岸をなす沼地の中へ消えていくようだ。

そこには灯台と、庭に囲まれた二階建ての家があるだけだ。車が止まった。メグレが連れの男を見ていると、彼は当たり前のように車を降り、門のほうへ向かっていく。

「ご覧になりましたか、警部さん!」と、ジュリーが喜びに息をはずませて叫んだ。
「家がわかったんです!きっと最後にはすっかり正気に戻ります」

そして彼女は鍵を鍵穴に差しこみ、きしむ門を押し開け、砂利を敷いた小道を進んだ。メグレは運転手に金を払い、すぐに彼女に追いついた。車が去ると、もう何も見えない。

「マッチをすっていただけませんか。鍵穴が見つかりません」

小さな炎。扉が押し開けられた。黒いものが通りすぎ、メグレの足元をかすめた。ジュリーはすでに廊下で電気のスイッチをひねり、床を不思議そうに見て、つぶやいた。

「今出ていったのは、たしかに猫でしたよね?」

そう言いながら、彼女は慣れた手つきで帽子と外套を脱ぎ、それを壁のフックに掛け、台所の扉を押し開ける。そこで明かりをつけたことで、彼女は気づかぬうちに、この家の人たちがいつもいるのはこの部屋だと教えていた。

明るい台所だった。壁には陶器のタイルが張られ、砂で磨いた白木の大きなテーブルがあり、銅製の調理道具が輝いている。そして船長は、何も考えずに体が覚えているように、ストーブのそばの籐椅子に腰を下ろした。

「でも、出かけるとき、いつものように猫を外へ出したのはたしかなんですが」

彼女はひとり言を言った。不安なのだ。

「ええ、たしかにそうです。扉はどれもちゃんと閉まってます。ねえ!警部さん、私と一緒に家のまわりを見ていただけませんか。怖いんです」

そのため彼女は先に進んでいくことさえためらうほどだ。彼女は食堂を開けた。そこは、非の打ちどころなく整頓され、ワックスで磨き抜かれた寄せ木作りの床と家具は、この部屋が一度も使われていないことを物語っている。

「カーテンの後ろを見ていただけますか?」

そこにはアップライトピアノと、中国の漆塗りと、ジョリス船長が極東から持ち帰ったに違いない磁器製品があった。

つぎは客間。そこも同じように整然として、買った店のショーウインドーに並んでいのと同じような状態だ。船長は満足げに、ほとんどうっとりした様子でついてきた。赤いじゅうたんを敷いた階段を上がる。寝室は三つあり、そのうちの一つは使われていない。

そしてどこも清潔で細かく行きとどいて整然としており、田舎と台所の心地よい香りが漂っている。

誰も隠れていない。窓はきちんと閉まっている。庭の出入り口も閉まっているが、鍵は外側に差したままだ。

「猫は換気口から入ったんだろう」と、メグレが言った。

「そんなものはありません」

二人は台所へ戻った。彼女は戸棚を開けた。

「何か少しお飲みになりますか?」

そして、そうやっていつものように行き来する中で、花模様のごく小さなグラスにお酒を注いでいると、彼女は自分の悲しみをいちばん強く感じ、泣き崩れた。

彼女は籐椅子に腰を下ろした船長を、そっと気づかれないよう見る。その姿があまりにつらく、彼女は顔をそむけ、考えをそらそうとしてつかえながら言った。

「お客さまの部屋をご用意します」

その言葉はすすり泣きでとぎれとぎれだった。彼女は壁から白いエプロンを外し、目をぬぐった。

「私はホテルに泊まる。一軒くらいはあるだろう」

彼女は縁日でもらえるような陶器の小さな置き時計を見た。そのチクタクいう音は、この家を守り続ける神様の一つのようだ。

「ええ!この時間なら、まだ誰かいるはずです。水門の向こう側です。さっきご覧になった酒場のすぐ裏です」

それでも彼女は、彼を引き止めようとしている。もう見ることもできない船長と二人きりになるのを怖がっているようだった。

「家の中に誰もいないと思いますか?」

「ご自分で確かめたでしょう!」

「明日の朝、また来てくださいますか?」

彼女はメグレを玄関まで送り、扉をすばやく閉めた。メグレは自分の足元さえ見えない濃い霧の中へ足を踏み入れた。それでも出入り口を見つけた。草の上を歩いているのがわかり、次に道の小石の上を歩いている。そのとき、遠くから叫び声のような音が聞こえたが、それが何か分かるまでにはかなり時間がかかった。

牛の鳴き声に似ていた。けれどももっとさびしく、もっと悲しい音だった。

「ばかめ」と、メグレは舌打ちしながらつぶやいた。
「ただの霧笛じゃないか」

方角がよくわからない。自分の足の真下に、煙を立てているような水が見える。彼は水門の壁の上にいた。どこかでハンドルがきしむ音が聞こえる。車で水の上を横着った場所が思い出せない。細い通路を見つけ、そこへ踏み出そうとした。

「気をつけろ!」

驚いた!。声はすぐ近くから聞こえた。完全にひとりきりだと感じていたのに、三メートルも離れていないところに男がいた。目を凝らしてようやく、そのシルエットがわかるほどだ。

メグレはすぐに警告の意味を理解した。彼が踏み出そうとした通路が動いていた。それはまさに開かれようとしている水門の扉だった。そして光景はさらに幻想的になった。すぐ近く、数メートル先に現れたのは、もはや人間ではなく、家ほどの高さの本物の壁だった。その壁の上には、霧で滲んだ灯りが見える。

大型船が警部の手の届くほど近くを通っている!太いもやい綱がそばに落ち、誰かがそれを拾い、係船ビットまで運んで、そこへ掛けた。

「後ろへ下がれ!危ないぞ!」と、蒸気船のブリッジの上から声が飛ぶ。

数秒前まで、すべては死んだようで、人気もなかった。ところが今、水門沿いを歩くメグレは、霧の中が人影で満ちていることに気づいた。誰かがハンドルを回していた。別の男が二本目のもやい綱を持って走っている。税関の役人たちは乗船用のタラップが岸壁に渡されるのを待っている。

何も見えないまま、口髭に真珠のようなしずくをつける湿った雲のような中で、すべてが行われている。

「通りますか?」

声はメグレのすぐそばだった。別の水門の扉だった。

「急いでください。そのあとだと、十五分は待つことになります」

メグレは手すりにつかまりながら渡った。足の下で水が泡立つ音が聞こえ、遠くでは相変わらず霧笛が鳴っている。進めば進むほど、この霧の世界で覆われ、見知らぬ世界の生活の気配が激しくひしめいている。一点の灯りが彼を引き寄せた。近づくと、岸につながれた小舟の中に漁師がいて、竿で支えた大きな網を下ろしたり上げたりしていた。

漁師は興味もなさそうにメグレを見て、かごの中の小魚をより分けはじめた。

大型船の周りでは、霧が少し晴れて明るくなり、人の行き来が見分けられた。デッキでは英語が話されていた。岸壁の端では、金の飾りの制帽をかぶった男が、書類に目を通していた。

港湾長だ。今、ジョリス船長の代わりをしている男だ。

やはり小柄な男だったが、もっとやせていて、もっとせわしなく動き、船の乗組員たちと冗談を交わしていた。

つまり、この世界は、いくらか明るい数メートル四方と、その周りの黒い大きな穴に集約できる。そこには固い地面と水があるらしいとわかるだけだ。海ははるか向こう、左手にあり、かすかに音を立てているだけだった。

ジョリスがふいに姿を消したのも、まさにこれと同じような夜ではなかったのか。彼はこの同僚と同じように書類に目を通していた。きっと冗談も言っていた。水門を通す作業や、船の動きを見守っていた。彼は目で見る必要などなかった。聞き慣れたいくつかの音だけで十分だった。ここでは誰ひとり、自分が歩いている場所など見ていないのと同じように!

火をつけたばかりのパイプをくわえたメグレは、顔をしかめた。自分がぎこちなく感じるのが嫌だからだ。海に関わるものにいちいちおびえたり驚いたりする、陸の人間である自分の鈍さが腹立たしかった。

水門の扉が開いた。船はパリのセーヌ川より少し狭い運河へ入っていった。

「失礼!あんたが港湾長か?司法警察のメグレ警部だ。あんたの同僚を連れて来ている」

「ジョリスがここに?では、やはり本人なんですね?今朝、その話は聞きました。しかし、本当にあの人は」

指先で額に触れる小さなしぐさ。

「今のところは、そういうことだ。あんたは一晩じゅう港にいるか?」

「一度に五時間を超えることはありません。つまり、満潮の頃だけです!満潮ごとに五時間、船が運河へ入ったり、海へ出たりできるだけの水深になります。時刻は毎日変わります。今日は始まったばかりで、午前三時まで続きます」

その男はとても率直だ。つまり自分と同じ役人ということで、メグレを同僚のように扱っている。

「ちょっと失礼」

彼は何も見えない沖の方を見た。それなのに、こう言った。

「ブローニュの帆船です。扉が開くのを待って、杭につながれています」

「船は前もって知らされるのか?」

「たいていは。とくに蒸気船はそうです。ほとんどが決まった航路で、イギリスから石炭を運び、カーンからは鉱石を積んで出ていきます」

「何か飲みに行かないか?」と、メグレが誘った。

「満潮が終わるまではだめです。ここにいなければなりません」

そして彼は、見えない男たちへ命令を叫んだ。彼らの正確な居場所を知っているのだ。

「あなたは捜査を担当しているのですか?」

村の方から足音がしてきた。一人の男が水門の扉の上を通り、ランプの一つに照らされた瞬間、猟銃の銃身が見えた。

「あれは誰だ?」

「村長です。カモ猟に行くところです。オルヌ川に隠れ小屋を持っています。手伝いの者は、もうあちらで夜の準備をしているはずです」

「ホテルは開いていると思うか?」

「ユニヴェール・ホテルなら、開いています!でも、急いでください。主人はもうすぐカード遊びを終えて、寝てしまいます。そうなったら、いくら頼まれても起きません」

「では、明日」と、メグレは言った。

「ええ!十時には港にいます。満潮の頃です」

二人はまだ互いを知らないまま、握手をした。そして霧の中では人間の活動が続いている。そこでは見えなかった男に、急にぶつかるのだ。

それは正確に言えば不気味なわけではない。それとは別のもの、ぼんやりした不安、胸をしめつける思い、息苦しさ。自分がよそ者である知らない世界が、自分のまわりで自らの活動を続けているという感覚だ。

見えない人間たちで満たされたこの暗がり。たとえば、順番を待っているあの帆船も、すぐ近くにいるのに、気配さえわからない。

メグレはランタンの下で動かずにいる漁師のそばをまた通った。何か言いたくなった。

「釣れるか?」

相手は水の中へ唾を吐いただけだった。メグレはそんなくだらないことを言った自分に腹を立てながら、遠ざかった。

ホテルへ入る前に彼が最後に聞いたのは、ジョリス船長の家の二階で、雨戸が閉まる音だった。

怖がっているジュリー!家に入ったそのとき、逃げ出した猫!

「この霧笛は一晩じゅう鳴っているのか?」と、ホテルの主人を見つけたメグレは、苛立たしそうにぼやいた。

「霧があるあいだはずっと。慣れますよ」

落ち着かない眠りだった。まるで胃もたれをしたときのような、また、子どものころ、大きなイベントを待っていたときのようなそんな眠りだった。二度、彼は起き上がり、冷たい窓ガラスに顔を押しつけたが、見えたのは人けのない道と、雲を突き破ろうとしているような灯台の動く光の筋だけだった。霧笛は相変わらずいっそう激しく、いっそう攻撃的に鳴っていた。

最後に彼が時計を見ると、四時だった。背に籠を負った漁師たちが、木靴の大きな音を立てながら、港の方へ歩いていった。

ほとんど間を置かず、あわただしく扉を叩く音がした。そして、返事を待たずに扉が開くと、そこに取り乱したホテルの主人の顔が現れた。

しかし、時間は過ぎていた。窓ガラスには日が差していた。それでも、霧笛はまだ鳴り続けていた。

「急いでください!船長が死にかけています」

「どの船長だ?」

「ジョリス船長です。ジュリーが港に駆け込んできました。医者を呼ぶのと同時に、あなたにも知らせてほしいと」

メグレは、髪をぼさぼさにしたまま、もうズボンをはいていた。靴ひもも結ばずに靴をはき、付け襟を忘れたまま上着を羽織った。

「出かける前に何か召し上がりませんか?コーヒーを一杯?ラムを一杯?」

だが、いらない!そんな時間はなかった。外は、日が差しているにもかかわらず、かなり冷えていた。道はまだ朝露でぬれていた。

水門を渡っているとき、海が見えた。まっ平らで、淡い青色だったが、見えるのはほんの細く横に伸びる水面だけだった。そのすぐ先で、長い霧の帯が地平線をおおっていたからだ。

橋ので、誰かが彼に声をかけた。

「あなたがパリの警部さんですか?私は村の巡査です。よかった。もう聞きましたか?」

「何を?」

「ひどいらしいですよ!ほら!医者の車です」

そして港の近くでは、漁船がゆっくりと揺れ、その赤や緑の色が水面に映り込んでいた。帆が上げられていた。おそらく乾かすためで、黒く塗られた番号が見えていた。

向こうの灯台のそば、船長の小さな家の前に、二人か三人の女がいた。扉は開いている。医者の車が、メグレと、彼にうるさくつきまとう村の巡査を追い越した。

「毒を盛られたという話です。どうも、顔が緑がかっているとか」

メグレが家に入ったその瞬間、ジュリーが涙を流し、目を腫らし、頬を赤くして、ゆっくりと階段を降りてきた。死にかけている男を医者が診ている部屋から、彼女は外へ出されたところだった。

ジュリーはあわてて羽織ったコートの下に、まだ長い白い寝巻を着たままで、スリッパの中の足は素足だった。

「ひどいんです、警部さん!想像もつきません。早く上へ!もしかすると」

メグレが部屋に入った時、医者はベッドにかがみこんだあと、体を起こすところだった。その顔は、もう手の打ちようがないことをはっきり物語っていた。

「警察だ」

「ああ!そうですか。終わりです。あと二、三分でしょう。よほど私がまちがっていなければ、ストリキニーネです」

医者は窓を開けに行った。死にかけている男の開いた口が、空気を吸いこむのに苦しんでいるように見えたからだった。するとふたたび、非現実的な絵のような光景が見えた。太陽、港、小舟、帆を下ろした漁船、そして光る魚でいっぱいのかごを木箱へあけている漁師たち。

それに対して、ジョリスの顔はいっそう黄色く、あるいはいっそう緑がかって見えた。何とも言いようがなかった。人の肌という概念とは相入れない、精彩を欠いた色だった。

手足はねじれ、機械じかけのような痙攣が起きていた。それでも顔は穏やかなままで、表情は変わらず、視線はまっすぐ前の壁に向けられていた。

医者は脈が弱っていくのを見るため、片方の手首を取っていた。ある瞬間、その表情がメグレに知らせた。

「気をつけて。最期です」

その時、思いもよらない、胸を打つことが起こった。この哀れな男が正気を取り戻したのかどうかは、わからなかった。ずっと虚な顔しか見ていなかった。

ところが、その顔が生き返った。表情がぐっと引き締まり、今にも泣きだしそうな子どもの顔のようになった。嘆くように口を尖らせてこれ以上は耐えられないと訴えているようだった。

そして大きな涙が二つ、あふれ出し、流れる道を探していた。

ほとんど同じ瞬間、医者の低い声がした。

「終わりました」

信じられるだろうか?ジョリスが二つの涙を流した、まさにその時に、終わったのだった。

その涙はまだ生きていた。耳のほうへ流れ、耳がそれを吸い取ろうとしていた。そのあいだに、船長は、もう死んでいた。

階段で足音が聞こえた。下では、女たちのあいだで、ジュリーがしゃくり上げていた。メグレは踊り場へ進み出て、ゆっくりと言った。

「誰も部屋に入れるな」

「もう」

「ああ」と、彼はポツリと言い残した。

そして日ざしの入る部屋へ戻った。医師は、念のために、心臓へ注射をする注射器を用意していた。

庭の塀の上には、真っ白な猫がいた。

脚注

  1. 1

    ウイストルアム(Ouistreham)は、フランス北西部ノルマンディー地方、カルヴァドス県にある実在の港町です。
    地理的には:
    ・カーン(Caen)の北約15キロに位置する
    ・オルヌ川(Orne)河口に面した港で、カーンと海を結ぶ運河の起点
    ・イギリス海峡に面しており、対岸のイギリスへのフェリー航路もある
    この作品では霧に包まれた小さな港町として描かれており、物語の主舞台となります。タイトル「霧の港(Le Port des Brumes)」が指すのもまさにこのウイストルアムです。
    第二次世界大戦では1944年のノルマンディー上陸作戦の上陸地点の一つとしても知られています。この作品が書かれた1932年当時はまだ静かな漁港と海運の町でした。

    ↩︎
  2. 2

    ウイストルアムは運河と海をつなぐ水門がある港なので、潮の満ち引きに合わせて水門を操作する作業が港の中心的な仕事でした。
    「夕方の潮(une marée du soir)」とあるので、その夜は夕方の満潮に合わせた水門作業の見回りに出たまま、姿を消したということです。
    ウイストルアムは非常に小さな港で、港長・水門係・灯台守などの役割が明確に分離できるほどの規模ではありませんでした。後の章でも描かれますが、港の人員はごく少数で、港湾長のジョリスが水門作業に直接立ち会うのは自然なことでした。

    ↩︎
  3. 3

    カーン(Caen)はノルマンディー地方の中心都市で、フランス北西部カルヴァドス県の県庁所在地です。歴史的には:
    ・11世紀にウィリアム征服王(ノルマンディー公)が建設した城と二つの大修道院で有名
    ・ノルマンディー公国の重要な都市として栄えた
    ・中世から石材の産地として知られ、カーンの石灰岩はロンドンのタワー・オブ・ロンドンにも使われた
    地理的には:
    ・パリから約240キロ北西
    ・海岸線から約15キロ内陸
    ・オルヌ川沿いに発展した内陸都市
    経済的には:
    ・ウイストルアムの運河のおかげで海運と内陸をつなぐ商業都市として機能
    ・繊維産業・石材産業が盛んだった
    第二次世界大戦では:
    ・1944年のノルマンディー上陸作戦後の激戦で市街の約75%が破壊された
    ・戦後に大規模に再建された
    この作品が書かれた1932年当時は活気ある地方商業都市として機能していました。

    ↩︎
  4. 4

    一般的に運河と海が直接つながる場合、水位の差という大きな問題があります。海は潮の満ち引きで水位が変わりますが、運河は一定の水位を保つ必要があります。
    そのため単純に掘っただけでは船が通れない
    水門(écluse)で水位を調整する仕組みが必要
    設計・建設・維持に莫大なコストがかかる
    ウイストルアムが重要な理由はまさにここで、水門を持つ運河港として
    イギリス海峡の大型船を内陸カーンまで運べる
    カーンは内陸都市でありながら実質的な貿易港として機能できる
    つまりウイストルアムの水門は、単なる小さな港の設備ではなく、カーンの経済を支える重要なインフラだったのです。だからこそ港湾長という役職も重要だったわけです。

    ↩︎
  5. 5

    プンタ・アレナス(Punta Arenas)は、チリ最南端の港町です。
    地理的には:
    ・南アメリカ大陸の最南端近く
    ・マゼラン海峡に面した港
    ・南緯53度という極めて南に位置する
    1932年当時の文脈では:
    ・パナマ運河開通(1914年)以前は、ヨーロッパと太平洋を結ぶ船が必ず通過するマゼラン海峡の中継港として栄えていた
    ・パナマ運河開通後も南米最南端の重要な寄港地として機能していた
    ・商船の船長たちにはなじみ深い港だった
    つまりこの絵はがきは、元商船船長のジョリスの旧友が、地球の裏側の遠洋航路に就いていることを示しています。
    メグレにとっては、ジョリスが国際的な海運の世界に深く関わっていた人物だという印象を強める手がかりの一つです。ハンブルクのオランダ銀行からの三十万フランと合わせて、単なる小さな港の港長ではないという謎が深まる場面です。

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  6. 6

    「voiture de maître」(富裕層の専用車)タイプの大型車の「strapontin」は助手席ではなく、前の座席と後部座席の間に設置された折り畳み式の補助シートです。
    本来なら前向きの補助座席を出して一人がそこに座れるはずですが、その補助座席が壊れていて三人が後部座席にぎゅうぎゅうに詰め込まれたという状況です。
    運転席は外部に露出した、あるいは仕切りで区切られた構造で、運転手はプロの御者・運転手という職業的立場です。
    客は後部の客室に乗るのが当然とされていました。
    当時は、現代のタクシーのように助手席に気軽に乗る習慣はなく、運転席と客室が明確に分離されていました。
    運転手の隣は同乗の使用人や荷物置き場として使われました。
    ただし1930年代になると車の構造も変わりつつあり、完全に分離されていない車種もありました。
    この場面の車は旧式の高級馬車スタイルを踏襲した古い車なので、運転席と客室がはっきり分かれていた可能性が高く、だからこそ三人が後部に詰め込まれたと考えられます。

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  7. 7

    オルヌ(l’Orne)はフランス北西部ノルマンディー地方を流れる川です。
    全長170キロほどの川で、ノルマンディー内陸部から北へ流れ、カーンを通り、ウイストルアムでイギリス海峡に注ぐ。
    ウイストルアムの運河はオルヌ川を利用して作られた、カーンと海を結ぶ水路の本体で、橋を渡った先の湿地帯はオルヌ川の河口部になります。
    「道は、オルヌ川7の岸をなす沼地の中へ消えていくようだ」
    つまり灯台とジョリスの家のすぐそばまで川の湿地帯が広がっており、港町ウイストルアムがいかに水と霧に囲まれた場所であるかを示しています。

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